甘えと依存の決定的な違い
知人が「自宅の鍵がない!」とカバンの中を探り始めました。
慌てている相手を駅のベンチへ連れて行き「慌てないでここでゆっくり探して」と伝えました。
すぐに出てきたのですが「一緒にいたのが家族だったら、もっと癇癪を起こしていました」と笑います。
「ご家族に甘えられるって、最高じゃないですか」と私は感じたままを言いました。
誰もが家族と他人との接し方は、当然異なるものです。
また近い者にほど甘えが出るのは、信頼や安心をしているということでもあります。
一概に癇癪を起こすことが「依存している」ということでしょうか?
これはちょっと違うのではないでしょうか?
依存は自分の感情のコントロール下にはない意識です。
「癇癪を起こしてあたりまえ」「相手も癇癪を受けてあたりまえ」だと考えているうちは、意識のなかでコントロールできていません。
しかしながら私の知人には家族と他人との接し方に、違いがあるという認識をはっきりと持っています。
認識があれば甘えのある家族にも、時と場合で使い分けることができます。
「いつもなら癇癪を起こす自分を許してくれるけど、今日は家族に少し元気がないみたいだから癇癪は出さないようにしよう」と考えることができるのなら、自分の感情がコントロール下にあるということになります。
するとこれは依存ではなく、甘えだと家族にも認識してもらえます。
いかなるときも相手に自分のあるがままの感情を受け止めさせようとすれば、依存に変わるのです。
依存している人は自分の許容範囲を広げずに、相手へ広げさせようとする
甘えと依存は紙一重の部分があるのですが、自覚をして自分の感情をいかにコントロールできているかで、依存と甘えの線引きが行われます。
するとその線引きは相手の許容範囲とも関係して、許容範囲の広い人は「またそんなに怒っちゃって」と見逃すこともできます。
けれども癇癪を起こされるのが苦手な人には、ただの恐怖体験です。
依存は相手の許容範囲を無視した、一方的なものなのです。
また依存されて問題となるのは「相手の癇癪を受け止めきれない自分の、辛抱が足りないのでは?」という受け手である自分に対する疑問や、罪悪感です。
許容範囲は一人一人違えば、依存が起こる部分もケースバイケースなので、全体的な許容範囲の広い人などそもそもいないのです。
ですが原因を自分の許容範囲の狭さだと罪悪感を覚えてしまうと、相手の依存を受け入れてしまいます。
そうやってどんどん依存させる側の許容できないものまで、無理に広げさせてしまうのが共依存関係のメカニズムです。
親子、恋人、夫婦、友人間、どんな間柄にも共依存関係は発生します。
親子で共依存関係に陥っていた人は幼い頃からその関係性に慣れているので、依存されることを嫌っていても受け入れてしまう癖があります。
甘えか依存かの判断が自分でできなくなったときは、他者への問いかけが有効です
依存している側は、依存があたりまえだと思っているので、自分で気がつこうとしない限り依存はやめません。
依存されている側も、自分の価値判断の基準が鈍ってしまっています。
もし自分の価値判断に疑問を抱いたときは、恥ずかしいなどと考えずに誰かへ問いかけてみてください。
できれば複数の人物へ別々の機会を持ち、問いかけるのがいいでしょう。
すると客観的な自分の受け入れられる範囲と、そうでないものの区別をするきっかけになります。
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