悲しみや怒りを癒す力は誰もが持っている
運命論者ではないのでわかりませんが、異性運に恵まれない、仕事運に恵まれない、お金に恵まれないなど、生まれ持った運というものは確かにあるのではないかと思います。
ただし不運を最終的に乗り越えて、幸せに生きている人たちがいるのも事実です。
私の周りを見渡すと運に見放されたような酷い目にあった人たちで、死ぬ気でそこから抜け出した人が該当します。
その人たちは「生きていくうえで、同じような目にあうのはもうコリゴリです。繰り返されるのなら死んだほうがマシ」くらいギリギリまで瀬戸際に追い詰められて、それでも生きていくという選択をした人たちです。
逆に「結構な辛い目にあったけど自己憐憫をして、誰かを責めていつの間にか元の生活に戻れました」という人はなにも変わることがなく、同じ問題を繰り返しています。
人は本能的に立ち直る自然治癒力を心身ともに備えています。
過去に瀬戸内寂聴さんが「お子さんを亡くして絶望した人が、出家をしに訪れても断る」というような話を雑誌で読みました。
まだ私が大学を卒業したての頃に読んだ話です。
その理由として「どんなに深い悲しみも時間とともに癒えるから」ということでした。
すると尼僧としての修行が辛いものになってくるので、結局続かないのだそうです。
折しも時代は宗教ブームで、某宗教団体に家族を取られた家族が「(家族を)返せ!」とシュプレヒコールを挙げていたころでした。
私はその記事を読んで「悲しみはいつか癒えるもの。だから私はどれだけ悲しくても、宗教や特定の人にはすがらない」ということを決めました。
ものすごい不運から立ち上がる人と、ソコソコの不運をいつまでも抱き続けるのはどちらが幸せなのでしょう?
立ち直りの力をフルに発揮するのが死ぬほどイヤな目にあった人たちで、ソコソコのイヤな目にあった人たちには同じ問題が繰り返されているとしたら、果たしてどっちが長い目で見て幸せだと言えるのでしょう?
私が心に傷を受けたときも慰めてくれたり、優しい言葉をかけてくれる人の存在はありがたかったです。
それでも「なぜ私なの?」と自分にとてつもないバチを当てられた気もしましたし、それほどでもない傷で済んだ人たちが羨ましかったです。
けれども慰めてもらえても、再びそのような目にあわないための道を示してくれる人はいません。
できないのです。
傷の深さの度合いがわかるのは自分しかいないし、誰かの提案してくれた方法が自分を癒してくれるとも限らないから。
そこで同情してくれる誰かの言葉に癒されたような気になってしまって、そのままでいることを選んだ人たちに問題が繰り返されます。
傷を癒す作業は、本当に苦しいものなのです
断捨離やお片づけをキチンとするのに、しまってある物すべてをいったん取り出さなければ捨てるものを決められません。
心も同じです。
いったんすべて洗いざらい辛い記憶も甘い記憶も掘り起こして、そこから捨てるべき考え方や持っておくものを自分で決めるのです。
愛着ある物でも使っていなければ捨てるという行為は、身を切られるほど辛いです。
捨てられずにいたということは、たっくさんの思い入れがあったはずですから。
それを物ではなく、心でするのです。
そこからしか始まらないけど逃げずに向き合って、捨てるべき思考や恨みを手放す勇気を持てた者だけが、根底から楽になっています。
そんな苦しくて面倒くさい作業は、心の底から大打撃を受けて「もう絶対にイヤーーー!」と懲りなければ取りかかれません。
けれどもそこを越えてその先に幸せが待っているのなら、ソコソコの辛さを何度も味わいながら、同じ場所でずっと蝕まれているより幸せなのではないかと思うのです。
まさしく有難い(難が有る)ことなのだなと、つくづく思います。
そう考えると2度と関わりたくないほどウンザリさせてくれた人たちは、面倒くさい作業に取り組むように仕向けてくれた使者たちということになります。
感謝するほど人間できちゃいませんが、見事に騙されたり陥れられなければ、自分の心の大掃除に取り組むことがなかったのです。
そうして1度限りでは終わらない作業です。
なぜなら毎日私たちはなんらかの感情を仕入れてきているのですから、それがグチャグチャになればまた断捨離を定期的に行うことになります。
けれども2度目は1度目ほど怖くも辛くもありません。
多少なりとも要領は覚えていますし、結果がいいものだと知っているからです。
無駄に怯えて逃げずに、トコトンイヤなものと向き合うのも、長い人生を考えれば悪くはないですよ。
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