相手のペースに合わせるのが苦手な人は、コミュニティーには向いていない

海外生活を終えて、中学校入学に合わせて帰国をしたときにいちばん戸惑ったこと。

それはおトイレでした。

小学4年で日本を去るまでは、1人で行っていたはず。

それが中学になるとクラスの女子たちは、必ず誰かと誘い合わせておトイレに行くようになっていたのです。

自分が行きたくなくても、誰かが行く時はつき添いで。

また一緒に行って相手が終わるまで、待っていることにも違和感がありました。

自分が後に出て待っていられるときも、同様の違和感です。

終わったらさっさと教室へ戻りたい。

だから自分のときも待っていて欲しくない。

それを我慢して一緒に行って帰ってくる必要が、どこにあるのかさっぱり理解ができずにいました。

お弁当も、通学も決まった人と。

その他の誰かと行動しようとすると、たちまち裏切り者扱いを受ける。

そうこうするうちにそれに適応させる自分がいましたが、今考えると相当なストレスでした。

誰かと一緒に行動しないと「友達がいない」烙印を押される恐怖

数年前のことと思いますが一時期おトイレの個室で、お弁当を食べる学生がいるという話題がありました。

さすがにおトイレで食べることは考えもしなかった私ですが、その気持ちはよくわかります。

1人で行動するのが友達のいない人、友達がいなければみっともないというような風潮が蔓延しています。

誰かと一緒にいるのは相性がよければ楽しいですが、楽しくもないのに一緒にいるのはみっともない自分を隠すため?

これでは本末転倒もいいところですよね。

「人は1人では生きて行けない」と言いますが、つまらない時間を費やすくらいなら1人の方がよほど生きやすい。

けれども大切な思春期に刷り込まれてしまった「集団行動」というものが、大人になっても尾を引いている気がします。

なぜならコミュニティーというものは、成熟した者同士でなければうまく運ばない。

けれども成熟した者は、そもそもコミュニティーを必要としない。

社長が「一匹狼であれ」というのは、こういう理由からです。

言った者勝ち、やった者勝ちをできる人がコミュニティーと相性がいい

少なくとも合わせてばかりいる人には、いかなるコミュニティーというものも向きません。

またこれまでの経験で言えば「言ったもの勝ち、やった者勝ち」に従うのが楽な人、従わせるのが好きな人。

こういった人たちが、コミュニティー活動に向いている気がします。

どちらも一方通行な利害関係の上で成り立つので、コミュニケーション能力はあまり必要としない。

私は話し合いや相互理解を深めて納得しなければ、指示をするのもされるのも嫌うタイプなのでまったく向いていません。

コミュニティーに属すも属さないも、誰もが自由ですから

コミュニティーに属すのが、いいとか悪いの問題ではありません。

結局関わり方が自分に適しているのか、そうでないかというだけです。

コミュニティーに属していても、どっぷりハマっている人と浅く関わっている人がいます。

同時に自分とコミュニティーとの距離感がうまく行かず、ストレスに感じている人も多く見受けられます。

自分が属している(あるいは属したい)コミュニティーとの快適な距離に、学生時代に刷り込まれた風潮を基準にする必要はないということです。


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