自分のためでないことは、動かなくていいのです
「誰のため?」ということを考えて動いていますか?
「他者のため」という言葉は、本来必要がないのではないかと思うのです。
必要なのは「自分のため」という言葉だけなのではないかと、常々感じます。
母が5月に脳梗塞で倒れた記事を書きましたが、私はあのときも自分のために動きました。
そのときの記事はこちらから→母が脳梗塞になりました
そうして退院後も自分のためにならないことは、一切手助けをしないことに決めています。
「お母さんの命を助けたのに、自分のためなの?あなたお母さんと確執があるでしょう?」と思われるかもしれません。
確かに確執はありましたし、過去に起こったことを忘れたわけでも許したわけでもありません。
またこれからだって、確執は起こるでしょう。
「誰だったら助ける」ということではないのではないでしょうか?
ただもし緊急を伝える電話がかかってきた際に、それが母でなくても私は助けに行ったと思います。
偶然そのとき母の元へ駆けつける状況が整っていたし、行ける距離だったということは大きいです。
けれどももし目の前で赤の他人が倒れても、同じことをするでしょう。
それは私に限らず良心を持つ人なら、誰だってすることではないでしょうか?
たとえ相手が犯罪者だったとしても「倒れた人」ということには、代わりがないと思うのです。
その人を助けるのは相手のためなんかじゃなく、ただ自分の良心を恥じさせないためです。
家族サービスという言葉は、私の知る限り日本にしかありません
誰かがピンチのときに義務感で動いてしまうのは、いつも他者を基準に行動している人たちです。
普段から他者のためですから「自分の意思と関係なく動かされている」という被害者意識でいっぱいです。
「家族サービス」という謎の言葉は、私の知っている限り日本にしかありません。
なぜ日本人はこのように、自己犠牲をよしとするのでしょう。
家族へサービスするために食事へ行く、旅行へ行く。
サービス(ご奉仕)は報酬がありきでしょう?
連れて行ってもらう家族だって、どんな報酬を支払わされるかと思えば食事も旅行も嬉しいでしょうか?
「一緒に楽しもう」ということなら、誰もが楽しくなるのにと思うのです。
悲しんでいたり辛い誰かがいて成り立つ関係性は、長くは続かないか全員が病んでしまいます。
母が健康になろうとすることに限って、自分のために協力をします
母の話に戻りますが私は母が自分を健康にするための協力は、惜しまずにしたいと思っています。
たとえば通院、食事、運動など、回復するのに必要な手助けはしたいと考えます。
冷たいようですが母が健康になってくれれば、私の手間も減るからです。
けれども甘えが高じて私に毒を吐くときは、毒を吐かせることで母の血液が怒りで更にドロドロになるので、いかなる要求にも応じません。
それに毒を吐くことで母は数少ない自分への協力者を失いますから、きっと痛手を被り健康を害します。
もし私が要求に応じずに母が癇癪を起こすようなことがあっても、知らぬ存ぜぬです。
「病人だから癇癪で人が動かせる」という刷り込みをすれば、母は治ろうとしなくなるから。
また私は癇癪や毒吐きも他人だろうが家族だろうが、受け入れられるほど心が広くありません。
それを受け入れらないことに関して、自分の良心はまったく恥じることがない。
家族サービスは必要ないと思う日本人ですから
むしろ無茶振りを受け入れる自分の方が「堕ちたものだね。私ってそんなことされていい人?」と自己評価を下げてしまいます。
私まで義務感による被害者意識で、無理やり動く人間になってしまってはいけませんね。
そのように自分を含む誰も幸せにしない人間の、仲間入りをすることだけは避けたいのです。
それくらいこちらが割り切るとですね〜、今まで見たことのない母がでてきます。
76歳にして悟ったか「自分でできることは、自分で‼︎」と発奮しているのですよ!
そうして私にもいろいろと気を使うようになりました。(私は脅していないですよ、笑)
自分を大切にすることで、他者も自分を大切にし始めるというのは真実だと思います。
皆さんも動くときは「自分のため」だけに動いてみてください。
関東地方はあいにくの天気が続いていますが、皆さんお風邪などひかれませんように。
楽しい週末をお過ごしください!
また来週♪
投稿がお気に召しましたら、ポチッとクリックをお願いします!
↓いつも応援ありがとうございます。