母はとても美人で、プライドが高く、華やかな人だ。
料亭を営む家庭に生まれ、お手伝いさんや芸者さんがたくさんいる環境で育った。
当時は大変なお嬢様だったそう。
母の美しさは私の自慢だった。
「セリちゃんのママきれいね」
と言ってもらうのが、とても嬉しかった。
「そうでしょう?私のママは、どの子のママよりきれいなの」
口には出さなかったけれど、本気でそう思っていた。
父と見合い結婚する前は地方局のアナウンサーで、雑誌の表紙なども飾ったことがある。
きっと若かりしころは、周りからチヤホヤされたのだろう。
残念ながら、私は父親とうりふたつ。(笑)
母は中1で自分の母親を病気で亡くし、高1で父親も同じく病死した。
両親の死後、3歳年上の母の姉が母親代わりとなり、母を大学まで出してくれたのだそう。
若くして両親を亡くしたことは、とても寂しいできごとだっただろう。
まだ親に甘えたい年齢なのに、甘えたくてもその人たちはもういない。
これはとても辛いことなのだということは、安易に想像できる。
しかも少女期から母親が長年病気を患っていたため、まったく甘えることなどできなかったと言っていた。
反抗期になった私が、口答えをすると
「私はいつ親が死ぬかわからない環境で育ったから、わがままなんて言ったことがなかった。なんとか1日でも長く生きて欲しいと、母親を喜ばせたくて必死に勉強したの。だからあなたが私に反抗する気持ちがまったくわからない」
そう言っていた。
本来なら反抗期など誰にでも訪れるし、大人になるために経なければならない大切な段階だ。
でも母は反抗心はおろか、甘えたい気持ちを出すことも許されなかった。自分が親から与えられなかった愛情を、我が子全員に与える気にはならなかったようだ。
寂しさを抱えたまま結婚をし、すぐに兄を妊娠、出産。
その翌年には私の誕生。
私に子供はいないが、年子は本当に大変だと聞く。
父は仕事人間で、ほとんど家にはいない。
結婚と同時に住んでいた故郷を離れ、父の職場の東京へ出てきた。
孤独だったのだろうと思う。
よく聞かされていた私が赤ちゃんのころの話。
「お兄ちゃんはおとなしくて、よく笑ういい子だったの。子育てってこんなに楽でいいの?って思っていたらあなたが『ギャー』って生まれたのよ」
そうしてそこからが大変だ。
いかに私が泣きやまない子で何度も息が止まり、ひきつけを起こすまで泣いて苦労したかという話となる。
思い出すと今でも腹立たしいのだろう。
すごく険しい表情になり、聞いててもおどろおどろしくて恐怖心がわく。
私はもちろん覚えてもいないし、どうにもできない。
とても悪いことをしていたという、罪悪感だけが生まれた。
数年前に受けた心理学のセミナーで習ったこと。
兄弟が複数いれば、兄弟間での親に対する愛情争奪戦が始まる。
どの子も親から愛情をもらうために、赤ちゃんのころから本能的に他の兄弟と違う特徴を持とうとする。
例えば上の子がおとなしければ、次の子はやんちゃになって、そのまた次はお調子者……というように、まったく違うキャラを構築するのだそう。
だから同じ親から育てられても、性格がバラバラなのはあたりまえ。
私が泣きやまないのだって、おとなしい兄と違う特徴を出そうと、赤ちゃんなりにやっていたことかもしれない。
おとなしくて、おりこうな兄と同じようにしていたら、母に愛情がもらえないと思ったのかもしれない。
真相はわからないけど、それを知ったことで自分の罪悪感は薄らいだ。
でも母が若かったころ、この知識があったのなら私への憎悪が薄れたかは疑問だ。
そもそも母は「母性本能」があまり育たずに成長してしまった人だと思う。
私が思春期に入ると「逆転親子」と周囲の人から言われるようになった。
私と母の会話を聞いている友人が
「どっちが母親だかわからないね」
と笑う。
私はずっとそうやってきたから、そうしなければならないと思っていた。
小学生のころから私は母の愚痴の聞き役であり、相談相手であり、励ます存在とならなければならないと感じていた。
捨てられる恐怖、育てにくい子だった罪悪感、無意識の中でいろんな要素が積み重なってできあがった私の生き抜く術だった。
それが私の「役割」でそれをしなければ、私がこの家に存在する価値はないものと思っていた。
家族全員も私がその役割を任せることが自然なことだとしてきた。
こうして私と母の共依存関係が、作りあげられた。
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