英語が話せるようになり低学年の特別学級から、
年齢相応の普通学級に入れることになった。
その学校の算数は当時の日本の教育より約2年ほど遅れていた。
いくら勉強ができない私でも、
小4だったので小2の算数は楽に解けた。
生徒たちは問題が解けると
先生へ見せに行き、
個別に採点してもらうことになっていた。
一緒の教室で授業を受けていても、
あくまで個人指導だった。
2年先をいく私は、
もちろん満点をもらえる。
「すばらしいね!
次の問題も解いてみて!」
と言われ、
どんどん難しい問題を出される。
初めて優等生気分に浸れた。
間違えても採点されているときに説明を受けて、
何度でもやり直す。
算数でいい点を取れるようになると、
ほかの教科も楽しくてたまらなくなった。
この学校は担任制ではなく、
教科別に先生が変わっていた。
授業中にときどき受け持ち以外の先生が、
教室に入ってくることがあった。
教室に入ってきては、
受け持ちの先生とゴニョゴニョと話している。
そうこうしていると、
室内の1人生徒のところへ行き
なにかひとこと告げる。
その生徒は自分の持ち物をかばんに詰め込むと、
入ってきた先生と出て行ってしまう。
再びその授業に戻ってくることはない。
「どこへ行ってしまったのだろう?」
と、いぶかしげに思っていたことが何度もあった。
ある日の授業中にまた先生が入ってきて、
受け持ちの先生とゴニョゴニョ話し始めた。
「今度は誰が連れ去られるのだろう?」
人さらいではないけど、
二度と同じクラスに戻らない生徒が
どうなったか知らなくて、
ドキドキした。
するとその先生は私のところへ
「荷物をまとめて」
と言いにきた。
言われた通りかばんに荷物をしまい、
先生が少し緊張している私と手をつなぎ、
教室の外に出た。
でもなんの説明もない。
黙ったまま先生に連れられて
違う教室の前に着くと、
「さぁここよ。いってらっしゃい」
と手を離された。
教室に入っても別に変わった様子もない。
自分より少しお兄さんやお姉さんたちが、
さっきまでいた教室と同じく問題を解いていた。
言われた席に着くと教室の先生から
「こっちにおいで」
と教壇に呼ばれる。
このときは算数の授業で、
渡された問題は、
これまでいたクラスとははるかに難しい問題集だった。
前のクラスの先生は、
私にどんどん難しい問題を解かせて、
レベルチェックをしてくれていたのだ。
そうして私のレベルより少し難しいクラスを探してくれて、別の先生に迎えにくるように伝えていたのだと知った。
入ったのは6年生のなかでも
難しい方の算数クラスだった。
(同じ学年でも何段階かのクラスに分かれていた)
本来持っている力より、少しだけ強い負荷を与える。
このなかでは私が最年少だ。
でも2年遅れた算数教育だから、
日本での年齢相応のクラスに入れただけ。
年齢に関係なく生徒のレベルに合わせたことをさせるのは、
勉強だけではなかった。
水泳も上手な子は子供の海難救助の
資格試験を受けるよう勧められる。
正式にイギリスから認定証が送られてくる資格だった。
これは大人並みの水泳の技術と、
体力が求められる。
ほかにもたくさんのチャンスが与えられた。
こうしてできることは学年関係なく
教科単位でどんどん伸ばしてくれる。
できないことも
レベルを落としたクラスへ入れて、
できるようになるまで寄り添ってくれる。
個人主義といえばそうなのかもしれないが、
冷たいものではない。
「人は人、他の人の出来不出来は気にしない」
が徹底されていた。
だから勉強ができる子も特別意識は持たないし、
できない子もコンプレックスは抱かない。
できる子に対する嫉妬もない。
できる教科が伸びると、
自然とできない教科も意欲的になって伸びていく。
好きなこと、
得意なことからどんどんやればいい。
決して無理強いはさせない。
そんな方針だった。
それまで落ちこぼれで、
勉強も運動も友達もあまりできない子だったから、
「できない苦痛」から脱出できた喜びは
普通の子より何倍もあった。
こうして勉強全般が好きになる。
苦手なことが減ると、
生きるのが楽になる、楽しくなる。
寝るときに
「明日が楽しみ♪
早く明日にならないかな?」
それまでそんな風にワクワクしながら眠りに就くことなどなかった。
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