大人になっても「童心に返る」ということは楽しいし、とても大切なことだ。
心理学的には誰の中にも、2種類の子供がいると言われている。
ひとつめがFC(free child 自由な子供)自由でのびのびとした子供。
もうひとつがAC(adapted child 適応的な子供)大人の言う事をよく聞くおりこうさん。
想像してみてほしい。2人の子供がいて1人はのびのびと、笑い声をあげて、悲しいときはワーンと泣き、文句もワガママも言う子供。
もう1人の子供はやたらと聞き分けがよく、大人と同じように振る舞っている。
でもいつも大人の顔色をうかがって、怒りや感情をあまり表に出さない子。
この2人の子供が目の前にいたら、どっちが可愛いだろうか?
恐らく1人めの子供が可愛いく思えるだろう。
大人になって、どんな感情を出すときも「自由な子供」を出せる人が愛される。
ある日、私はある人に大きな不満を抱えていた。
そこで友人に聞いてもらうことにした。
私は真面目に怒りを聞いてもらっているのだけど、友人は私の話にうなずきながらも、笑いがこらえられない。
「セリちゃん、怒っているんだね」となんども言いながら、ゲラゲラと笑う。
私は「そう怒っている」と言いながら、機関銃のように話を続けている。
友人は「前髪切った?」と私の話す内容にまったく関係のないことを聞いてくる。
「うん切った」と言いながら、私はまた話を続ける…….。
すると友人はプーっと吹き出し「ひどい話なのに、笑いが止まらないー!」
と体を揺すりながら、お腹を抱えて笑いだした。
友人から見たそのときの私は、怒っているのに、面白すぎたのだそうだ。
前日に短く切りすぎた前髪が、さらにおかしさを助長していたらしいのだけど、私が怒りを訴えている姿そのものが面白かったらしい。
そのときの私は無意識で心許せる友人に、自由な子供として怒りを聞いてもらっていたのだ。
まるで「ねぇ、お母さん聞いてよ!今日ね、◯ちゃんがすっごい意地悪でね…….」と、真剣にほっぺを膨らませながら、怒りを独白する子供になっていた。
自由な子供が発動するときは、たとえ怒りがあっても相手から反感を買わない。
そうして抱えている怒りの対象を、間違えない。
人の愚痴や不満を聞いているときに、当事者でもないのに自分も一緒に責められているような、イヤな気分になることはないだろうか?
そんなときは話している相手がものわかりのいい「適応的な子供」を出している。
怒っている対象の人間に抑圧されて出せない怒りを、あなたへ身代わりに引き取らせようとしているから、責められているように感じる。
「親として」や「大人」として、自由な子供を出してはならないと考えがちなのだけど、まったくの逆で、どんなときも「子供らしく」正直に感情をあらわした方が、万人に受け入れてもらいやすいし、自分も楽なのだ。
自分が夢中でなにかに取り組んでいるとき。
たとえ仕事をしているときでも、自由な子供が発動している瞬間だ。
適応的な子供が発動しているときに、人は意地悪をする。
適応させすぎて、いい人になりすぎて、ストレスが溜まってしまうのだ。
「イヤだ!」と本当は言いたいのに、大人でいようとする自分が邪魔をする。
でもどこかで発散をしないと、支えきれなくて意地悪をするという行為に走る。
幼い子供はいたずらはするけど、意地悪はしない。
意地悪を教えているのは、自由な子供を出すことができない、ストレスでいっぱいの親が教えている。
変に物わかりのいい大人になるのは、やめよう。
大人だって悲しいときも、子供並みに楽しめることも、怒りが爆発することだってある。
情けない姿などと考えずに、自由な子供に返って素直に出すことが大切だ。
「人間臭さ」を出してもいいことを子供に伝えることも、大人としての立派な役割だし教育だ。
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