「ただ話を聞いてほしい」と思うとき

誰かに「ただ話を聞いてほしい」と思う状態は、かなり心が弱っているときです。

だけれどもそんなとき、思うままに話しを続けるのは逆効果となりやすいです。

心が弱っているときに必要なのは休養です。

それなのに話しを続けることで、消耗が加速してしまいます。

また「ただ聞いてほしい」と思うほど弱っているときに、かけられる優しい言葉。

あるいは手厳しい言葉。

優しい言葉、手厳しい言葉どちらも、心に響くと劇薬になりやすいです。

「自分はこんなにも愛されている」。

「自分を厳しく指導してくれる人がいる」。

弱っているのですからどちらも「自分へ向けての愛情だ」と思ってしまうのは、無理もないでしょう。

確かに自分を特別に思ってくれる人の存在は、ありがたいものです。

もちろん目からウロコのような優しさや手厳しさが、一時的に必要なことはあります。

だけれどもそう頻繁に求めると、依存ができあがってしまいます。

劇薬は緊急のときにしか使わないもの

誰しも心も体も劇的によくなれば、楽になります。

痛みが嘘のように消えた。

気持ちがサーっと晴れた。

だけれどもそれは「病が治った」というわけではありませんよね。

心も体も同じです。

病巣はくすぶったまま、痛みや苦痛を薬で逃したにすぎない。

だけれども苦しみが軽減したことで、脳は一時的に快楽物質を出し始めます。

これが依存の始まりです。

もしここで優しい言葉や、手厳しい言葉を求め続けると心も体も「耐性」というものができてきます。

「耐性」というのは、読んで字のごとく「耐える性質」です。

劇薬に耐えられる性質というのは、同じ量で効かなくなるということ。

耐性ができれば量を増やすしかない

耐性ができた体で快楽を求め続けると、劇薬の量を増やすようになります。

病巣は進み体は悲鳴を挙げているのに、心と脳は劇薬を求めてさまよいます。

そうして「もっと自分へ優しい言葉を、もっと自分へ手厳しく指導を……」そう願ってさらなる依存を求めるのです。

もっともっと「自分を特別な存在に見てほしい」という思考になってきます。

そのような思考になると、なにが起こるか?

「自分で考える力」を退化させます。

ときには特別扱いしてくれる人をコントロールしてまで、優しさや手厳しさを求めるようになります。

相手が疲れきってしまっても、劇薬を求める気持ちはおさまりません。

そうして劇薬をくれないとわかるやいなや、次に出てくるのは「期待を裏切られた」という感情。

劇薬は効果が出たときに、病巣を治すためにある

劇薬は依存を促進させるために、存在するのではありません。

麻酔は手術をするために使われます。

痛みを和らげている間、体を治すために存在します。

麻酔を常用してしまえば、最後は廃人になってしまうから頻繁には使えません。

優しさや手厳しさを与え続けるのは、劇薬を打ち続ける医師のように思えます。

また優しさや手厳しさをもらい続ければ、自分の思考を持たない廃人になる恐れがある。

医師、患者どちらも崩壊するということ。

これが共依存関係と同じメカニズムだということは、わかりますか?

自分が治りたい相手を治したい、どちらも同じ

医師と患者なら治療のガイドラインがあるから、わかりやすい。

だけれども共依存関係にはガイドラインがないから、際限が見えにくいです。

ではどうすれば共依存から抜けられるのか?

あなたが医師だったとして、考えてみてください。

どれだけ患者さんを救いたくてもガイドラインがある以上、法律を守ることを優先すると思います。

患者さんが禁断症状でわめいて騒いで、暴れて苦しんでも「裏切り者!」だとののしられても劇薬は使えませんよね。

供給を断っている間に、痛みで亡くなられても劇薬は使えない。

だって使ってしまっても、使わなくても亡くなるのだから。

自分の医師としての免許を剥奪されないために、職務を全うしますよね?

治したい氣持ちがいくらあっても、救えないことだってあります。

最初はどちらも「治したい治りたい」だったのが、治りたい側が依存し始めた時点で目的はズレてしまった。

劇薬の供給を断つことは、見捨てることではない

苦しんでいる相手が目の前にいて劇薬の供給を断つのは、その人を見捨てるような感覚になるかもしれません。

でも医師にとっての患者さんが1人きりでないように、自分の周囲にはまだ別の存在がいるのです。

医師が免許を剥奪されたら、他の患者さんが苦しむ。

依存されている人が崩壊すれば、別の存在が苦しむ。

劇薬を供給し続けることは、依存する人の依存を促進する可能性まで出てくる。

それだけではなく周囲の人間まで、崩壊させる可能性が出てきます。

客観的に見て劇薬の供給を断つことは、見捨てることでしょうか?

依存は他者からやめさせてもらうことはできない

依存症患者さんは「もう薬物には依存しない」と自分で決めるまで、やめることができないそうです。

かつて薬物依存で逮捕されたタレントさんは「今でも薬物が目の前にあれば、やらない自信はない」と服役後も言います。

劇薬で脳に快感を覚えさせてしまうと、他者がどれだけ目を光らせても防止はできづらい。

ただ供給を断つことでしか、依存から抜け出すことはできないそうです。

供給を断っても劇薬を持っていては、元に戻るのは共依存関係も同じではないでしょうか。

供給を断つのは相手が「もう依存をしない」と決めるためのステップの1つに過ぎません。

それでも隙あらば依存を続けようとするのなら、依存が治る見込みは低いと考えたほうが賢明です。

そうして依存させないことを考えるのではなく、自分が依存対象から抜け出す決断をした方がいいです。

長い目で自分を見てください

共依存から抜け出せない人は「依存はいつか治るだろう」という短期的な希望的観測を持つ優しい人です。

また依存する側も病巣に痛みがでるまで、頑張ってしまった我慢強い人が多いのです。

だけれども依存する快楽を覚えると、別人になってしまうこともあります。

だからもう少し長期的で、客観的な目線を持ってもらいたい。

「このまま劇薬を用いることで、自分を含む誰かが幸せになるのだろうか?」という目線を持ってください。


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