自分の常識が相手の常識とは限らない

意見の食い違いは、どれだけ親しい間柄でも起こります。

食い違いが生じたときに双方に誤解がある可能性があるのか、それとも根本的に考え方が違うのかで対処の仕方はまったく違います。

そこで議論というものが発生するのですが、議論ってそもそも結論があるわけではなくて、相手の思いを知るために存在するのです。

議論したうえで誤解だったら解けるでしょうし、考え方が違うならそれに対して自分はどう対応するか?というところまでが議論なのです。

もしそこで「あなたは間違っている」という考えが頭にあると、そこからは議論ではなく、相手に脅威を与えます。

たとえば毎日ファストフードを食べることがいいことだとは、私はなかなか思えません。

けれどももし自分の大切な人が毎日食べていても、私には「間違っている」と言う権限はないのです。

その人自身が間違っていると思わなければ、それはただの考え方の違いで終わります。

「私はよくないと思う」あるいは「やめませんか?」という提案は、自分の意見として言ってもいいのですが「やめなさい」と言えば猛反発を食らいます。

また「やめませんか?」と言われて自分の好きな物を食べる自由を手放したくなくて、私を説得しようとすることも「やめなさい」と言っている私と同じことになります。

なぜなら考え方の違いの上には、正解も間違いもないからです。

もし私の脅威を感じてファストフードを食べるのをやめたら、体は一時的に健康になるかもしれませんが、心はストレスでいっぱいになるかもしれません。

そうしてストレス性の病気になってしまえば、なんのためにファストフードをやめさせる必要があったのでしょう?

またファストフードを食べるのをやめない説得を私にして、毎日食べる権利を勝ち取ったところで、体に負担をかけていることは変わりません。

議論は意見の食い違いがあっても、その人と継続して一緒にいたいか?そうではないか?を考えるためのもの

信頼をしていた人から暴言を吐かれたり、傷つくような目にあっても、それは考え方の違いから起こっていることがあります。

そのとき暴言を吐いた方は明らかに悪いのですが、そこで正論を振りかざして相手に悪かったと認めさせて、一緒にいようとすれば無理が生じます。

相手があなたを傷つけたと自覚して一緒にいるために「もう二度と暴言を吐かない」と決めない限り、また暴言を吐きます。

正しいことを言っていることと、相手に正しさを理解させることは別のことなのです。

だから議論は議論のままに、食い違った場合は考え方の違いを受け止めるだけ。

その人と食い違った考え方のままでも一緒にいたいか、それとも違うのなら一緒にいられないのか?

そこだけ突き詰めた後は意見の食い違いから手を離して、一緒にいるいないだけが自分に残された選択肢です。


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