なぜ「どちらでもいいよ」と言っていた人が、こんなに怒っているのだろう?と思ったことはないだろうか?
なにかの選択肢を問いかけたときに「どちらでもいい」という回答をする場合、回答する側には2つのパターンがある。
- あなたへ選択を委ねます。その際なにが起きても責任は一緒に負います
- あなたへ選択を委ねます。ですがなにか起きても自分は連帯責任を放棄しますし、文句があれば言います
簡単なことから、大切なことまで「どちらでもいい」という言葉は日常で多く使われている。
こうして文字に起こしてみれば、一目瞭然で2の意味合いで使う人は「卑怯者」に該当することがおわかりいただけるだろう。
今日は他者を「うつ」に巻き込みかねない卑怯者についてのお話。
卑怯者の行動パターン
- 選択が正しく出た場合の甘い汁は、自分の功績として吸い尽くす。
- けれども、トラブルが生じれば自分は蚊帳の外へ一目散で逃げていく。
- 逃げていくだけでは終わらず批判者となり代わり、選択を委ねた相手を攻撃する。
「どちらでもいいと言ったのは、お前を信頼していたからだ。まさかこんな結果にするとは!」と自分が選択を委ねたことは棚上げをする。
もっとひどいのになると「最初はイヤだと言ったのに、お前がどうしてもというからだ」などと自分の優柔不断さを正当化しようとする。
- 部下に「どちらでもいい」と指示を出しておきながら、悪い結果が出るとダメだしをする上司。
- 妻に「お前に任せた!」と伝えておきながら、子供の教育に口出しをする夫。
- 夫に休日の過ごし方を問われて「なんでもいい」と答えて文句を言いながら付いてくる妻。
「どちらでもいい」を喧嘩を避けるための優しさで言ったとしても、それは見当違いの優しさだ。
少なくとも責任を回避された相手には、決して優しさだとは伝わらない。
選択をするときには些細なことから大きなことまで、責任が生じる。
責任を放棄して失うものは「信頼感」だ。
卑怯者としては優しさとして伝えたつもりなので、信頼感を失うことになると想定してもいないだろう。
委ねた相手へ「自分の優しさがわかっていない愚か者」と逆恨みをしたりもする。
委ねられた側は責任を放棄され、信頼もできなくなり、挙げ句の果てには逆恨みまで受けては立つ瀬がない。
卑怯者としては優しさが別れを引き起こす原因になっていることが理解できず、かみ合わない感情のまま別れを迎えてしまうこともある。
卑怯者に対する回避策
選択を問いかける側も、卑怯者の「どっちでもいい」に従わないこと。
「(卑怯者だと)見分けられない」といってもそういう傾向にある人は、過去に何度か同じことをしているはずだ。
「あの人は責任を取らずに丸投げをするから、自分が責任のある行動をとらねば」と考えがちだけど、卑怯者にほど選択はお任せしよう。
仮に自分の望まない選択を卑怯者が選んだとしても、全責任を自分に丸投げされて周囲ごと非難を受けるという最悪の事態は避けられる。
また卑怯者が自分の望まない選択をしたときには「その選択をする場合、自分は責任を一切負いません」と事前に公言しておく。
そうしてよくよく、責任の所在を明確にする。
するとほとんどの卑怯者たちは「それならあなたが決めて」と弱気を出してくるけれど、それは堂々めぐりの罠だ。
そもそも自分の選択に自信がないから、決断できず相手に選択を委ねる人種だということをお忘れなく。
その選択でトラブルがふたたび起これば「自分が決められなかったことを、相手に頼んで任せた」という前提はなかったことになる。
卑怯者の性癖はそう簡単には治らないから、あなたへ選択を委ねて自分は蚊帳の外へ出ることで頭がいっぱい。
選択権をあなたへ戻したからといって、あなたを尊重してくれているわけではないことを知っておかれた方がいい。
本当は卑怯者からは離れるのがいちばんいい。
けれども一概に卑怯者と言っても度合いも違うし、ある一定の割合で家庭にも職場にもいるものだ。
いちいち離れていたら身がもたないということもあり、対応策として書いてみた。
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