自分の存在を消したくなるのは、自分の存在価値を見出せないとき

自分がこの世に存在していいのか?なぜ存在をしているのか?
哲学的な問題なのですが、自分の社会においての役割がなくなったときに、人はいちばん弱ります。

仕事を定年退職してそれまで自分の存在を、仕事だけに注いだ人は孤独です。
子育てだけに存在してきた人は、子供が独り立ちすると孤独と戦わねばなりません。

そういった人たちは、自分の存在がなんなのか?ということに年老いてから苦しみます。

存在に対する疑問を抱えるているのは、大人だけではありません。
子供も考えています。

私も「なぜ生まれてきたのだろう?」という疑問は、幼いころから抱いていました。

また愛情いっぱいに育てられているように見える親しい人の子供から、聞かれたこともあります。
「ねぇ、僕が死んだら悲しい?」
3歳の子でした。

親でもない私に、存在を確認したがるのです。

「悲しいなんてもんじゃない。気が狂っちゃう。じゃあセリがいなくなったらどう?」
と聞くと「イヤーーー!」と泣きそうになりました。
「今の君と同じくらい、セリも悲しいよ。だから死なないでね」と伝えました。

大人も子供も口にしないだけで、自分の存在する場所や意義を常に問うているのです。
自己実現をしたいのだって、自分の存在価値を探しているからです。
誰かの役に立つというのは、その後の話なのです。

つまり人間は自分の存在さえはっきりとしていれば、困難に強くなれるということです。

 

私の存在を大きく支えてくれた人

これまで生きてきた人生で、これほど優しい人がいただろうか?と思う女性がいます。
病気でお亡くなりになられたので、今はもう会うことができませんが、私はその人から「優しさ」というものを教わりました。

その人に会うといつも包み込むような愛情をもらい、自分の寂しかった幼少期をどれほど満たしてくれたのだろう?
そう思うと私にとってのその人の存在は、肉親ともまた違ったとても大きなものでした。

小学生のころから、家族ぐるみでお付き合いをしていた家庭の奥さんです。
小学生のある日その人の家へ行き、麦茶が出されました。

飲むとしょっぱかったのです。
それもほんのり塩味などではなく、激的にしょっぱい麦茶でした。

砂糖の害が知れ渡り、今では廃れてしまった習慣かもしれませんが、私が子供のころは麦茶にお砂糖を入れている家庭がありました。
私はこの家では砂糖の代わりに、お塩を加えるのかと思って黙っていました。

けれどもおばさんは「セリちゃん喉乾いていないの?」と私が飲めないことに気がつきました。
しぶしぶ「ここのお家は、麦茶にお塩を入れるの?」と蚊の泣くような小さな声で私はつぶやいたのです。

おばさんは「またー、セリちゃんったら冗談を言っちゃって」と私のコップの麦茶を一口飲むと、口を押さえて台所へ逃げて行きました(笑)

「ごめんね、おばさんおっちょこちょいで」と台所から新たなコップに注いだ、お砂糖入りの麦茶を持ってきてくれました。

「セリちゃん優しいのね。おばさんが恥をかかないように、そっと言ってくれたのね」と笑顔で言われ、
「ううん、いろんなお家で飲み方が違うのかな?って思っただけ」というやり取りがありました。

その後おばさんは誰かと一緒にいるときに「セリちゃんって、優しいのよ」と誰にでも私が優しい子だと伝えてくれました。
私の母にも同様に伝えてくれていました。

 

人格を否定せずして伝える

母から辛い目にあっている私を心配して「もっと優しくしてあげて」とか「そんなことを言ってはかわいそうだ」と母へ訴え続けてくれた人はたくさんいました。

母はその人たちの言葉に「そんなことないわよ」と言って全く動じません。

そういった人たちのなかで母へ「セリちゃんは優しいのよ。こんなことも言ってくれるの」と麦茶のエピソード以外のことも、母へ逐一報告してくれました。

大人になってからわかったのですが母の存在や人格を否定せずして、私の存在を「優しいもの」と母へ伝え続けてくれた、たった1人の人でした。

大人になり、なぜわかったかという話は明日の第2話で


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