駅に止まる度に、2人はキョロキョロして車内電光表示板の停車駅の名前の確認をする。
巨大なキャリーバッグを各自持っているから、用意しておかないとすぐには降りれない。
2人で「ここも違うわ」とコソコソと話している言葉が、フランス語で聞こえた。
フランス語……お恥ずかしい話、私の大学の専攻はフランス語だ。
短期とはいえ、1ヶ月間留学していたこともある。けれども話せない。
話をある程度は聞き取ることはできるけど、答えられない😓
どこの駅で降りるのかを教えてくれれば、前の駅で教えてあげられるのに。
電車が混み合ってきて、座っている場所から電光表示板が見えなくなった。
アナウンスも騒がしくて、聞こえない。
窓の外の看板の表示は電車がいい具合に、その場所へ停まらなければ見えない。
2人とも「乗り過ごしてしまったのではないか?」と言い始めた。
うーん、うーん。私の情けないフランス語を稼働させるべきか?
乗り過ごしてしまったのなら、
早く降ろしてあげなければどんどん先へ進んでしまう。
普段は自称「アフリカ人」の私でも、
こんなときは「シャイな日本人」なのだと都合よく思う。
そんなときに、海外で大迷子になった10歳のときの自分が現れた。
スイスのジュネーブへ旅行をしたときだ。
レマン湖で、父と兄とボートを漕いで遊んだ帰り道のことだ。
兄とダッシュで競争し合いながら、ホテルまで歩いていた。
グングン全力で走って疲れたので背後を振り返ると、
兄も父も忽然と姿を消していた。
戻って探すけれど、どこにもいない。
ジュネーブの町並みはあまり看板もなく、町の景観は統一されていた。
つまりなんの特徴もないので、元の位置がどこなのかもわかりにくいのだ。
延々と歩きながら2人を探しても、見つからない。
翌日はロンドンへ移動することになっていた。
「1人でスイスに置き去りにされる!」と思うと、涙がポロポロと流れてきた。
10歳の子供が泣きながら歩くのは、
とてもみっともないことなのだとわかってはいたけれど、
どうしても不安の涙が止まらない。
とうとう建物の角に座り込み、涙が止まるのを待っていた。
そこへ現れたのはスイス・イタリアン(スイスのイタリア語圏の人)のおばさまだった。
私の肩をすごい力で抱きしめてくれた。
でも私はイタリア語はまったくわからない。
そのおばさまは、近くの男性に声をかけた。
その人は英語が話せた。
英語が話せた私は家族と離れてしまったことを伝えると、
「ちょっと待っていて」と言い置いて日本人を探しに行ってくれた。
連れてこられたのは関西弁を話す、若い日本人男性だった。
しかしながら、その人は英語が話せなかった。
バリバリの関西弁で「ポリース、行くかぁ?」と、英語を話す男性に日本語で言った。
「彼が警察に行った方が、いいのではないかと言っています」
となぜか連れて行かれるはずの私が、通訳をしていた。
段々と人だかりができて、最後は7、8人ほどの人たちが、
私と日本人男性をグルリと囲み、ディスカッションになった。
市民会議の結果、私の「警察送り」が決まった。
決まった途端、日本人男性は「じゃあ連れてってもろうてな!」と手を挙げて、
去ってしまったのだ😱
日本人を除く観衆の方々にガードをしていただき、
ゾロゾロと警察へ連行されるべく歩いていた。
そこへ偶然別行動をしていた母と妹が、通りかかった。
なんでも母たちはタクシーに乗ってそこまで行っていたらしい。
宿泊していたホテルからは、4キロ近く離れた地点だったそうだ。
そうして私は無事に保護されたのだけど、
迷子になってから2時間以上、私はジュネーブ市民に守っていただいていた。
話は長くなってしまったが、
その事件がフランス人夫婦の慌てふためく様子で、アリアリと思い出された。
そうだ、私も日本人としてこの老夫婦へ恩返しをしなければ!
「どこで降りたいのですか?」とたどたどしいフランス語で聞いた。
「◯◯駅は、もう過ぎてしまいましたか?」と言われたときに、
停車した駅がその駅だった。
「あー、ここでーす!」すでにドアが開いていたときに気がついたので、
やはり身動きが取れない。
ご婦人の方の巨大なキャリーバッグを一緒に持ち、
「すみません、降りるので開けてください!」と叫びながら先導した。
そうしてギリギリ車外へ、2人を出すことができた。
「言葉が伝わらないなどと小心者ぶらずに、
もう少し早く声をかければ余裕で降りてもらえたのに」
と淡い後悔は残ったけど、間に合ったからよしとした。
ちなみに兄も父も私が走っている途中に宿泊ホテルに着いたので、
スッと入って行ってしまったのだそう。
なぜ声を掛けなかったかというと、私が湖を見に行ったのだと思ったそうだ。
その時まで、私も家族も私が方向音痴だということを知らなかった。
湖を見て自力で帰ってこれるだろうと勝手に判断をし、
見当違いの方向へ向かって走って行ったことは考えもしていなかったそうだ。
一向にホテルへ戻らない数10分後に2人は青ざめて、探しに出ていた。
家族と合流して夕飯を食べているときに、
「あのとき見つからなかったらセリは今頃警察で、
ボート漕ぎのオールでできた手のマメを数えていたのだろう」と家族中の笑い者にされた。
そんな悔しい言葉も一応「人助け」をしたことで、成就させることができた。
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