他者からホメられることって、意外に自分で評価していないことが多々あります

「尊敬されたい」と思っている人に「ふざけているときがいちばん魅力的」だと言っても、それは茶化しているとしか思われないでしょう。
食べている姿がとても幸せそうに見えている人へ、素敵だと伝えても「あぁ、そう?」と流されるでしょう。

自分の欲しい評価と、相手のくれる評価のあいだにギャップがあるのです。

自分が価値を置いていないことを、ホメられたところで響きません。
けれどもそれこそが、その人の他者より大きく秀でている部分だということも多々あります!

自慢になってしまいますが、私は大好きな方から「エロ賢い」という名誉あるキャッチフレーズをいただきました。

「エロ」も「賢い」も自分とは縁がない言葉だと本心から思っていますし、一笑に伏して「イヤイヤ、誰もそんなこと言いませんよ」と答えるのです。

かつての私の頭の中ではこういう評価をいただくと「本当にエロければ、世の男性が放ってはおかないだろーーー!今ごろモテモテで、旦那は心配で外へも出せませんわ」とか「賢いならこんなに、つまずきだらけの人生を歩んでないわい!」と相手のホメ言葉を、否定したりしてしまいました。

それは私の「自分は人から好かれてはいないのではないだろうか?」とか「頭が悪いから滅多にないような問題を招き、切り抜けていないのではないか?」という過去からのコンプレックスに由来しているものです。

「イヤイヤ〜」ていどで終わるのは現在はコンプレックスが、それほど根深くないまでに回復しているからだと思っています。

そうして思い返せば過去にも頻繁ではなくても、同様の言葉を他の人からも言われているのです。

だからといって「エロ」を強みだと勘違いして、意識的に出せば「色ボケ」としか他者からは映らないでしょう。(想像すると吹き出してしまいます)
また「賢い」を前面に出そうとすれば嫌味に感じられたり、自分が知らないことを「知らない」と言えない見栄を張ってしまうことも考えられます。

ここでお伝えしたいのは私が「エロ賢い」かどうかではありません。(笑)

他者からわざわざ言われたホメ言葉は、それを受けた時点で努力ナシで人より秀でている部分であるということ

言う側の立場になって考えてみてください。
その人をわざわざホメて、なんの見返りを求めるというのでしょう?
「かわいいね〜」とかわいい人や動物、物にはつい言葉に出して言ってしまいませんか?

意識や努力をしなくても、出せている自分なのです。
それは人が努力しなければ得られないかもしれない、ものすごいアドバンテージ(優位性)なのです。

あえて磨かずして、自然とにじみ出るものは隠せないものです。

コンプレックスが強く出ているときほど、自分にはなにもないと思いがちです。
あるいは大きな評価を狙ってしまえば些細なホメ言葉など、なんの足しにもならないと思うことでしょう。

けれども大きな評価は、もともと些細なものの積み重ねからしか出てきません。

不足をすると焦ります。明日食べる物がないと思うと、私は焦ります。
そうして要らないものまで、かき集めようと躍起になります。
「ほら、ないわけじゃないのよ」と求められてもいないのに他者へ見栄を張り、持っているものを見せようともします。

内心では自分の足りない部分を数えては「ないない」と『ないものリスト』を見て嘆くのです。

けれどもあると思うだけで、心は充足されて余計なものを集めようとはしないものです。

人からのホメ言葉を否定しているのは、相手の言葉を否定しているだけではなく、自分で自分の批判者になっているときです。

自分への批判をやめて『あるものリスト』に相手のホメ言葉を追記しましょう。
そうして自分の「アドバンテージは、これだけあるのだ」と安心してください。

私には「エロ」と「賢い」の少なくとも2つは『あるものリスト』のなかに記載されています。
そうしてそれは見せなくても見えているものだから、あえて人へ見せる必要もありません。

自分を卑下しないでいい材料として、あるものリストの在庫が多ければ多いほど『ないものリスト』へ補充するものが減るのです。

コンプレックスの少ない人は、すなわち『ないものリスト』の数が少ない人ともいえます。


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