自分の力ではどうにもならないときに、現実を認識した後で出る感情は怒りです

人が常軌を逸した怒りに駆られるのは、自分の力ではどうにもならないことが起こったときです。

スポーツにはうとい私でも、テレビでよく見かけるシーンです。

まさかの逆転満塁ホームランを、打たれたチーム。

自殺点を入れてしまったサッカー選手。

最初は呆然とするかもしれませんが、その次に出てくるのは怒りなので地面を叩いたり、足を踏み鳴らしたりしています。

別れ話に逆上して他者を殺めてしまうのも、相手をコントロールできないことがわかったからです。

自分の力ではどうにもならない事態が起こると、人は悲しむより先に逆上します。

相手を殺めてしまうまではいかなくても責めたり、嫌がらせをして苦しめる人も同じことです。

「あのときの自分はどうかしていました」と裁判などの証言でもよく聞きます。

自分を他人に置き換えているだけで、客観視などできていません

「自分は優しい人間だ」と信じている人は、自分の冷徹さや傲慢さを受け止めきれません。

優しい自分を基準に考えると、自分のしたことを切り離さなくては自己像が崩壊してしまいます。

だからまるで他人がしたことのように「自分ではない自分がそうさせた」と思い込もうとするのです。

抱えている怒りの量が多ければ多いほど、不測の事態が起きたときに取るリアクションは大きなものになります。

「自分がそんなことをするはずがない」そう信じています。

またそう考える人はいつまでも成長などせず、不測の事態が起こるたびに同じように怒りを露わにするのです。

自分を成長させたい人は、そこで自分の怒りの多さを知ることになります

「殺したいほど憎い相手がいる」と感じることができる人は、実は健全な人です。

自分の暴力性を認識しているだけ、冷静だということ。

けれども自分の暴力性を否定している人がなにをするかというと、自分の正当性を訴えるための加害者を作り上げようとします。

「自分はこんなにひどいことをされたのだから、この制裁は正当防衛だ」と自分を被害者に仕立て上げ、誰かに心理的な攻撃を仕掛けます。

他者の怒りを煽り非難をして攻撃をすれば、当然どんな人でも反応します。

そうして自分を可哀想な人間に見せかけて、相手を悪に仕立て上げます。

この思考回路は他者にはどうすることもできませんし、習慣化されているので本人も無意識のうちに行っています。

しかしながら自分の中に強い攻撃性を持っていることを認識できた人は「相手が変わっても、また同じことが起こる可能性がある」と自分を危険人物として扱い、自分自身をいかにしてコントロールするかという手立てを考えるのです。

魔が刺すほど疲弊している

衝動的に行われたことは「魔が差した」と言いますが、正常な思考回路が働いているときに起こる判断ではありません。

体が疲弊して病んでいれば、誰でもイライラとしてしまいます。

そうして健康なときには出てこない内在的な怒りが、顔を出してしまうのです。

善意のある人は「あのときの自分はどうにかしていた」と言われれば、反省をしたのだと考えてしまいます。

けれどもそうではなく、それはそのままその人の内在的な怒りの本性を表出させたに過ぎません。

表出は1年に1回、10年に1回かもしれませんが、自分を切り離して考えている限り、必ず同じことが起こるので注意が必要です。


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