ここのところ違和感について、意見を求められることが多かった
重なるときは重なるのか、ここ最近相手を変えて「違和感」について話題にあがることが多かったです。
また私へ違和感を話題にあげた人たち全員が「違和感を感じている自分が間違っているのではないか?」という疑問を抱き、私へどう思うかを聞かれていました。
けれども感じた違和感が正しければどうなるの?
仮にその違和感が間違っていたら、どうするの?という話ではないですよね。
違和感は違和感に過ぎず、抱くことにいいも悪いもないのですよ。
合わない場所や相手は存在しますが、その場所や相手が悪いわけではありません
違和感を感じるということは属するコミュニティーや個人的な相手が、現時点では合わないと脳がストレスとして訴えているだけ。
先々のことはわかりません。
ずっと合わないままかもしれませんし、時間が経てば相思相愛になる可能性もあります。
けれどもそれは自分のコンディションと相手のコンディションが関係することで、コンディション同士が不協和音を奏でているだけに過ぎない。
不協和音を放置しておくと、不快な音しか聞こえてきませんので「現時点では離れて」と自己防衛本能が違和感を使って教えているだけです。
だから「自分が間違っているのではないか?」と責める必要もありませんし、相手をとがめることも意味がありません。
違和感を感じるときは、同時に相手と拮抗が始まっているときです
違和感が生じるときは意見が対立する相手との間で「相手へ譲れる要素がない」と互いに綱引き状態(拮抗 きっこう)が始まっているということなのです。
馬を早く走らせるには鞭を打つことと、手綱を強く引く方法があります。
手綱を強く引くと馬は口角を引っ張られて、痛いのです。
それで「チクショー、痛いだろう!」と怒り早く走ります。
騎手が片手で鞭を打ち、もう片方の手は手綱をガンガン引っ張っているのを、テレビなどで観たことがある人も多いと思います。
その状態をお互いに相手へし合っているのが私の持つ「拮抗」のイメージです。
馬がちょっとでも何かにつまずくと転倒しますし、騎手が少しでもバランスを崩せば落馬して大怪我をしてしまうギリギリの状態。
ギリギリの状態ですから違和感を感じているときは、ひどく消耗してしまいます。
そもそもの目的が違う話し合いは、どちらの頭の中も「いかにして自分の目的へ、相手を近づけることができるか」しか考えていません。
相手を怒らせてまで自分の意見を通そうとしたり、絶対に従いたくないと抗うために反発をしながらお互いに離れない。
けれども互いに相手へ譲る思いがない(違和感を感じるとき)時点で、どれだけ話し合いを続けても分かり合えることはありません。
だったら無理やり一緒にいることを選ばずに、別々に一番満足の行く状態にすればいい。
なぜ「自分が間違っているのではないか?」にこだわってしまうか?
一方で「自分が間違っているのではないか?」ということにこだわるのは、相手に責められるのではないか?という不安感からきています。
また違和感と嫌悪感は似て非なるものですが、当事者だと特に区別が難しい。
感じるものが実は嫌悪感だった場合、相手を嫌悪する自分に罪悪感を感じてしまうので「責められたくない」という思いが「違和感」という言葉にすり替えられている場合もあります。
また嫌悪感を感じると攻撃性が出るので、自分の内なる攻撃性を出さないために、あえて違和感という言葉を使うこともあるでしょう。
いずれにしても違和感を長く我慢していれば、その延長線上には嫌悪感が募ります。
超高速で走る馬から振り落とされて大怪我をせぬよう、違和感を感じた方が先に手綱を緩め、緩やかに馬から降りる体制を整えることをお勧めいたします。
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- 手綱の引っ張り合い, 自分が間違っている?, 違和感