大人として成熟したいのなら、子供に返ればいいと思う件

友人や親戚の子供たちを見ていると「私よかずっと大人だな」と感心してしまう機会が多いのです。

そうして自分の幼少期を振り返っても「あのころの自分は今よりずっと大人だった」と思うことも多いです。

なにが自分を幼児化させてしまったのだろう?

そう思い返すと、大人になって分別をつけるのは「いい、悪い」をベースに考えるようになるということでした。

分別のまだついていない子供のころは「好き、嫌い」で考えていたからではないかと思うのです。

「好きだから食べる」「嫌いだから泣く」といった「いい、悪い」の判断ではない。

好き、嫌いは自発的な物だから被害者意識もでてこない。

被害者意識がないから、親や他者を責めたり恨んだりするという発想がない。

責めたり恨んだりする相手がいないというのは、幸せなことだと思います。

親が◯◯するのがイヤだったから、優しくしていた

親と共依存関係の子どもが、幼児期に親の期待に添おうと頑張ってしまったのも「好き、嫌い」がスタートだったのではないでしょうか・

自分の親が怒るのが嫌い。

自分の親が悲しむのが嫌い。

褒めてくれる親が好き。

優しい親が好き。

明るい家族が好き。

などなど、すべて好き嫌いが判断の基準だったのではないかと思います。

健全な親ならば、子どもに無理をさせていることがわかります。

けれども心が満たされていない親の場合、子どもの好き嫌いを逆手に利用してしまいます。

怒るのを嫌がるから、怒っていう事を聞かせよう。

悲しむのを嫌がるから、悲しい姿を見せて家を明るくさせよう。

褒めてもらいたがっているから、もっと厳しくして自分の優位性を確立させよう。

といった子どもをコントロールすることに、子どもの好き嫌いを使い始めます。

そこで親は「いい、悪い」を使い始めます

自分を怒らせる子どもが悪い。

自分を悲しませる子どもが悪い。

自分を褒めさせない子どもが悪い。

自分を優しくさせる子どもはいい。

自分を明るくする子どもはいい。

そういった親の身勝手な概念を刷り込まれると、親のコントロールに対する不信感が自己批判につながります。

親を怒らせているのは自分が悪いから。

悲しませているのは自分が悪いから。

自分が悪くないということにうすうす気が付いてはいても、親の洗脳は強力なのです。

それとどうしたって、大人と比べて子どもの方が適応力が高いです。

アフリカに子どもの戦士がいるのも、早いうちに洗脳しておいた方が簡単だから。

大人に向かって「人を殺めることが正義だ」ということは、なかなか洗脳できません。

すると子どもは親の洗脳に浸ってしまい、根っこでは自分が悪いことをしているわけではないのに「自分が悪いのだ」と自他ともに認めさせようとし始めます。

大人の思考のベースを取ってしまうと、大人に戻ることができる

いい、悪いを考える基礎は、対外的な判断です。

電車で騒ぐことが悪いのも、時間を守ることがいいということも、騒がれた方や守ってもらえなかった人の判断です。

つまり困るのは相手であって、自分ではない。

それでは自分のやりたくないことに従うこととなって、反発心や被害者意識が出てしまいます。

一方で子どものころのように騒いで迷惑をかける自分が嫌い、時間を守る自分が好きという人には、自発性は出ても反発心や被害者意識は出てきません。

子ども同士の喧嘩の素晴らしいところは、喧嘩が終わるとケロッと仲直りをしているところ。

「喧嘩をしたくなったから喧嘩をした。喧嘩をしたけれども友達が好きだから仲直りする」と自発的なものが基準でシンプルです。

またこれは誰かに対して「私はこれが嫌い」と聞いてもいないのに、牽制目的で公言している大人の幼稚な発想とは違います。

大人の喧嘩が根深くなってしまうのも喧嘩をすることに「いい、悪い」の判断があって自分の価値基準に、相手を当てはめようとするからではないでしょうか?

けれども客観的に見て、どちらが大人でしょう?

私から見た成熟した大人というのは「好き、嫌い」ベースの自発性で、前向きな結果を導きだす子どもの心を持つ大人なのです。


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