自力、他力共に感謝できるのが、祈りのいいところ
私は特定の信仰を持たないので、神社仏閣にもお参りしますしクリスマスも祝います。
またスピリチュアルな力も、持ち合わせてはいません。
ただ母と母方の親戚がクリスチャンなことと、中学高校がプロテスタント系の学校だったこともあり「祈り」というものを、自然に身に着けました。
今でも長期で家を開けるときには「行ってきます。留守中にこの部屋をお守りください」と鍵を閉めてから唱えます。
そうして帰ってきたときには留守中なにごともなく、家が出迎えてくれたことに感謝をします。
また寝不足や体調不良のときに、大事な用があるときも「今日1日無事に勤めを終えられますよう、助けてください」と祈ります。
そうして無事1日を終えたとき、再び感謝をします。
祈るというと敬虔な感じですが、目もつぶりませんし「心の中でつぶやく」と言った方が正確です。
だから誰も私に祈りがあることなど知りませんが、心細いときは私なりにいつも祈っているのです。
祈ることで自分がなにかに守られているような気になりますし、どんな些細なことでも無事に終えられたことは、自分だけの力ではないと感じています。
困難が起きたときにも祈ります
かつての私は今よりずっと、自己肯定感が低かったです。
誰かに甘えたくても余計な気を使ってばかりで、上手に甘えられない。
けれども自分で困難を、乗り越えられる気もしない。
そんなときも祈りには、ずいぶんと救われてきました。
「私にこの問題を乗り越える力を貸してください」と神様でも、仏様でもない何かにつぶやきます。
そうしてなんだかんだありながらも、ここまで生きてこれています。
祈りは自分への戒めと励ましと、約束なのです
祈りは祈りでもたとえば食事に対して「感謝して残さずいただきましょう」そんな言葉は、日常的に聞きます。
体の調子が悪いときや、食べられない食材が出てきたときのこの言葉は、拷問に等しいです。
これひとつとっても場合によっては感謝の強要であり、支配になってしまいます。
感謝は自分で感じるものであり、他者から感じさせてもらうことはできません。
「ダメだ」と言われているものでも、ダメなものさえなければ果たしてその人は幸せになるのでしょうか?
祈りは、自分だけに使うものです。
そうして祈りは、自分との約束だと思うのです。
「無事にこの家へ帰ってきます」「今日1日気をつけます」「この問題をなんとか乗り越えます」と自力を発動させるための原動力として、私は使っている気がします。
他者との約束なら守れなくても言いわけできますが、自分との約束は守らなければ自分への不信感につながるのです。
また自分との約束が守れないのなら、他者との約束を守ることはもっと難しいでしょう。
このようにして自分との約束を守ることで、自分を信じる力や自己肯定感も上がります。
自分だけの力かもしれませんし、何かの力のおかげかもしれません。
けれども最終的には誰の力であろうが、自発的に感謝できる心の状態がいちばん自分を好きになるときなのです。
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