相手の望むことをするのは、相手のイヤがることをやめるより簡単

相手の望むことを叶えるのは、簡単なことです。

素敵なプレゼント、行きたい場所、耳触りのいい言葉……など。

喜ばれるし、自分自身にいい評価が返ってきますから。

一方で相手のイヤがることをして「やめて」と言われただけで、自分が責められたような感覚になる人がいます。

「別に悪気があってやったわけではない」

必死になって自分を守るがあまり「自分がそれをした理由は」をとうとうと述べても意味がありません。

相手にとって「なぜそれをやったのか」が問題なのではなく、その行為がイヤなだけですから。

どういう事情であれ「自分はこのことをされたら、とてもイヤな思いをする」と訴えているだけなのです。

そこで理由を述べられても、イヤなことには変わりがないのです。

これは自分の考え方の押し付けで「自分と付き合うためには、この事情を汲んで我慢してもらわなければならない」という優位性を示しています。

自分の物差しで相手を測っていることになりますから、非常にエゴイスティックな考えにすぎません。

もちろん許容範囲の広い狭いはあるので、すべてを聞き入れてあげるわけにはいかないし、ときには相手のわがままということもあるでしょう。

けれども自分にとって簡単にできることや、気にならないことが、相手にとって同じわけではありません。

相手の問題は相手の問題。しかしながら大切な人へ自分が悪影響を与えているのは自分の問題

人の大きな声に、とても敏感な人がいました。

子供のころから自分と接するときに、父親が大きすぎる声で話しかけていたそうです。

面白い話をするときも、怒るときも、すべて大きな声で話をしていたということでした。

子供は聴覚がいいので、まるで耳元にスピーカーを当てられたように感じて、楽しい話もすべて恐怖だったそう。

私の声は響くので90歳すぎて難聴になった祖母でさえ、大きな声で話さなくとも「セリの声はよく聞こえる」と言っていました。

ある日友人たちと楽しい話しで盛り上がり、普段より少し大きな声で話をしていると、その人が顔をしかめる素振りをしました。

「なにか気に触ることを言っちゃった?」と問うと、その人の顔は真っ赤になりました。

「変に思わないでね。セリちゃんの声が大きすぎるの」と言われました。

周りの人間は「えー?普通だよ。そんなに大きな声じゃないよ」と言いましたが自分の声が響くことを知っていたので、私には彼女がなにを言っているのかがわかりました。

そう伝えると彼女は「よかった。そんなに大きな声じゃないって、いつも言われてしまうから」と言って安心して自分の父親の話をしてくれました。

もしかすると「声」を理由にしているけれども父親に対して、もっと違う感情があったのかもしれません。

けれどもそんな原因を追求しても意味がありません。

彼女は私の声が小さくならないことには、とにかくその場を楽しめないのですから。

また私も一緒に楽しみたいですし、声を小さくするなど簡単なことです。

そこから仕切り直しをして、その場は和やかに終わりました。

確かに大きな声が苦手なのは、彼女の問題です。

イヤならそこから彼女が抜け出して帰ればいいとか、大きな声に慣れる心理療法があるならばなどと考えがちです。

しかしながらそれだけ注意をすれば、彼女は楽しく優しい素敵な人なのです。

そこを我慢させてまで一緒にいて、いったい何になるのでしょう?

足を踏まれて痛いのを、踏んだ張本人が「あなたの問題」だと言えますか?

自分が一緒に過ごすうえで相手あっての問題は、自分だけの問題だとは言えません。

害をばらまかれる不安感が相手と一緒にいるたびに起こるなら、害を撒き散らすのをやめるか、我慢を強いるかの2択になります。

「安心して一緒にいられない」という積み重ねは、ことの大小関係なく誰とでもこのうえないストレスです。

パートナーに浮気をされても気にならない人もいますが、それを相手に求めても無駄です。

また浮気を繰り返す相手に「それがどれだけいけないことか」を倫理や常識で説得するのも同じこと。

関係性が対等で相手が自分にとって大切な人なら、相手がイヤがることをやめるのはどうってことありません。

そこで逆ギレをしたり譲れずに自分の主張ばかり通そうとするなら、それは「確かに足は踏んだけど、痛いのはあんたの問題だよね」と言っているようなものです。

そんな人はあなたを大切には思っていません。

我慢をさせる、自分に変えられる余地はあるのか?そこをすべて相手の問題として処理をしては、誰とも信頼関係は結べないのです。


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