353fee734a0a84e9abbb16d847c750e7_m

 

自我境界という心理学的用語がある。
これは自分の心の核をなすものだ。

 核というからには自分が自分であるために、
無くてはならない中心的なもの。

核を失ってしまうと、自分の存在が脅かされる。  

だからこの自我境界を誤って構築すると、
自分の生きている意味がわからなくなってしまう。

つい最近まで某発展途上国で貧困層のボランティアをしていて、
うつ状態となり帰国した若者と会った。 

1年前に思い切って仕事を辞めて、
はるばるその国の大変な人たちを助けるため、
自分の預貯金をはたいて行った。 

仕事はやりがいもあり、楽しかったらしい。
現地の人たちからも慕われて、言葉も徐々に上達していった。  

毎日誰かのお役に立てていることを実感し、
過酷な環境での暮らしにも、不平不満はなかった。

    

帰国まであと1ヶ月となった日に、彼は窃盗団に襲われた。
休日久しぶりに出た街中で酒に酔い、

一人で歩いていたところを、一瞬で数人の男たちに囲まれた。

それぞれがナイフを持っていて、
「殺される」
と思い観念したそうだ。

車に乗るように指示をされて、全裸にされた。
日本では考えられないことだけど、

ボロボロの靴や、チビた鉛筆や消しゴムでさえ盗まれる国だ。

身ぐるみ剥がされて平野へ置き去りにされたところを、
半日が経って通りがかりの車に助けてもらった。

    

「命が助かってよかった」
私がアフリカで生活をしていたときも、
邦人や外国人が殺される事件が何度かあった。

「時計をくれ」
と言われて無視して歩いたら、
背後から頚動脈をドライバーで刺されて、死亡した日本人もいた。

殺されなかったし、ほとんど怪我もしなかったことは、
非常にラッキーなことだったと思う。

 すると彼は
「俺はその国の人たちから裏切られた。あんなに助けてやったのに」
と言った。

  

「人の役に立つ人間になれ」
と幼いころから教えられて生きてきた。

 両親も国内で援助活動を熱心にする、奉仕の精神を持つ人たちだ。
親のように誰かの世話をするために、

自分は生まれてきたのだと彼は言った。

その世話をしに行った者をこんな目に遭わせるとは、
悔しくてたまらないということだった。
  

彼は
「人の世話をする自分に価値がある」
で自我境界を構築していた。

それが
「世話をする自分に感謝をするどころか、汚された」
という気持ちになり、深く落ち込みうつ状態になっていた。

「世話をすること」はすなわち「感謝をされる」
ということがセットだったのだ。

  

だからセットが奪われたときに、
自分の存在さえ否定されてしまった。
正確には「自分で否定をしてしまった」だ。

もし彼が
「世話をすること」
だけに終始していれば、
自分が殺されなかったことに感謝ができただろう。

  

ボランティアで人助けをすることは、尊いことだ。
私にはできないことだ。
実際多くの人々が助かったことだろう。
  

けれどもその目的の先に
「感謝をされる」
という別の目的があったことで、
自己否定感を感じてしまうのだ。  

「人の世話をすることが自分の幸せ」
にしておけば、人からその信念を汚されても、
自分のやりたいことをしていて、

命が助かったのだから喜びになっていたと思う。

  

自我境界を「美しい容姿」で構築しないほうがいい。
その容姿が崩れてしまったら、
自分は生きて行く価値のない人間に思えてしまうから。

自我境界を「立派な学歴や職歴」で構築しないほうがいい。
その学校や職場の評判が下がることは、
自分の評価を下げることになってしまうから。  

自我境界を「頑張っている自分」で作らないほうがいい。
頑張れなくなったときに、
だらしのない自分を責めてしまうから。

 

私の自我境界はユニークな目線だ。
これは人から見れば変な人だったり、
面白い人に映ることだろう。 

ユニークな目線で、物事を観察するのは楽しい。
自分が楽しいから否定されてもなんとも思わないし、
一緒に楽しんでくれる人がいると、なおのこと楽しい。  

誰から何をされても崩壊しないもので、
自我境界を構築しておけば、
自分自信を保てないほどのショックを受けたときに、
「私にはまだこれがある!」と心を支えてくれる。
  

あなたの自我境界はなんですか?

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


投稿がお気に召しましたら、ポチッとクリックをお願いします!

↓いつも応援ありがとうございます。

にほんブログ村 家族ブログへ