母と母の友人と、妹、私の4人(小学校1、2年生)でいたときだ。
母と妹は手をつないで歩いていた。
妹と手をつないだ母と、母の友人の後ろから私がついて歩く。

私にとってこれは日常的なことだったから、
特になんの不平不満もなかった。

途中で母の友人が
「まぁセリちゃん、たった一人で歩くなんて」
そう言ってその人は私と手をつなぎ、
母と妹を先頭にさせて私とともに、
母たちの後ろを歩いてくれた。

「この子はいいのよ!」
友人と話しながら歩けなくなることを嫌い、
私と手を離して元の状態で歩くよう、母は友人に勧める。

「まだこんなに小さいのに、
一人で後ろを歩かせていいわけないでしょう」
その人は母にピシャッと言ってくれた。

「私が後ろから歩くのは、おかしなことだったのか?」
初めてそう思ったし、手をつながれて歩くことが
これほど嬉しいものなのだということを知った。

また母にしても、私と同じように
「 どうってことないこと」
だったり、
「こんなことで私が責められている」
と相手を逆恨みするくらいにしか思わない。

だから他人からこうした指摘を受けても、
「この子は一人で歩くのが好きなのよ」
などと私が言ってもいない、自分勝手ないい分が先に出て、
必死で自分を正当化するだけだった。

「セリちゃんにもっと優しくしてあげて」
と母に頼んでくれた大人は、1人や2人ではない。

母の姉である叔母でさえ
「子供のころから、セリちゃんにひどいことをしている」
と今も母に言い続けてくれている一人だ。

自分にとって
「こんなことで?」
と思うようなことが他人には、
見ていられないほどの違和感を感じさせていたのだ。

子供が自分の理不尽にどこまでも付き合ってくれる。
それがまた母の正当性を強化していた。

それと同時に私の心の闇も深めていた。

私の母のみならず、こうやって自分にも周りにも、
心理的なコントロールをしている人は案外多い。

「この子が食べたいと言っている」
と子供のせいにして、自分の食べたい物を食べようとする。

「この子がここへ行きたいって言っている」
と子供のせいにして、
自分の行きたくない場所を避けようとする。

「この子のスケジュールが忙しいから」
と子供のせいにして、
自分の都合のいい時間に相手を合わさせようとする。

これはすべて自己防衛で、行われていることだ。

こういう思考回路の人たちは、
「この子」という言葉を「配偶者」や「上司」
に変えている場合も多い。

無意識の習慣で行なわれている。
悪気はないのだ。

誰かのせいにして、
自分では責任を負わないようにしている
他者への心理操作(コントロール)と言える。

もしご自身にこういった思考の傾向があると思われる方は、
主語を
「私」
に代えてみてほしい。
「私が食べたい」
「私が行きたくない」
「私があなたに合わせてほしい」

ご自分のコントロールしている場面が
多いと気づくことができる人ほど、
身の回りで起きているトラブルを減らし楽になるだろう。

なにより子供の心の健やかさを取り戻すことになる。

不思議なことに心理的であろうと、身体的であろうと、
虐待を子供に与えている親に、
「子供にどうなってほしい?」
と問うと、
「楽しんで幸せに生きていてほしい」
と今まで聞いたすべての人が異口同音に答えた。

私の母親も
「あなたには死ぬときに、
あー楽しかったと思ってほしい」
と言う。

子供の幸せを願っているのになぜ苦しめる?
と思われるかもしれないが、
これは本音なのだ。

当事者たちは相手の心や体に傷をつけていることと、
幸せを願っていないということは、
別問題としてとらえている。

だから虐待の裁判でも「しつけ」などと言って
反省の色のない人が多い。

正当化を重ねると、
相手を攻撃したという意識が希薄になるのだ。

自分の身を自分で守るのは大切なことだけど、
自分の幸せを他者をコントロールしてまで追い求めれば、
攻撃に変わることを知っていただきたい。

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