自己責任は自由自在なのです!
昨日の投稿では「いい、悪い」で判断することは他者からの評価が混ざってしまうということを書きました。
他者からといっても、他者のいい悪いの価値観も多岐にわたっています。
誰からも好かれる人はいないように、誰にとってもいい価値観というものはないのです。
そんなものがあれば、この世から戦争はなくなるはずです。
また他者と議論を交わすにしても、自分の価値基準がしっかりしていなければ、ただの長いものに巻かれる人となります。
子どものころの、長いものの最たる人は「親」ですよね?
つまり「いい、悪い」を武器にする依存親から受けたストレスそのままを、部外者の多岐にわたる価値観からも引き受けて自分の苦しみが続くということです。
そこで子どもの価値基準の「好き、嫌い」の感覚に頼ることが、自己責任で被害者意識も出ない。
最終的に自分を自由にして楽にするということでした。
昨日の投稿はこちらから→子どものころは今よりずっと大人だった〜「いい、悪い」で判断する大人達
深夜11:30に食べるようなものではないよね?
ある日の深夜11:30、楽しく飲んだ帰り道のことです。
一緒にいた人とお別れすると「炭水化物が食べたい」という欲求が出てきました。
私は飲むときに、最後に必ず〆の炭水化物がないと物足りなく感じるのです。
ビールを美味しく飲むために喉を限界までカラカラにする人がいるように、〆の炭水化物を楽しみにお酒を飲んでいる気もします。
たくさんおつまみを食べていたのでお腹は空いていないのですが、とにかく炭水化物が食べたい。
帰り道に光るネオンのお店を見つけて飛び込みました!

むふふ、会いたかったよ♪

さらにドーン‼︎
50歳に近い人間の夜食として、これから深夜の工事現場で肉体労働でもしない限りありえないですよね?
体にとって「いいか、悪いか?」で判断すれば、絶対に悪いです。
けれども心には、これらを食べたいという欲求が確かにあるのです。
そうして満たされて帰ってくれば心は満たされて、体には負担がかかっている状態です。
翌日からは、体の負担を取ってあげればすむことです。
自分の体のことですから数日間体に負担をかけないようなものを、選んで食べることは苦ではありません。
それで回復しますし、心は満たされたままです。
心を満たすことは、その日のうちに
悲しいことがあった日、頭にくることがあった日、生きているとさまざまな負の感情が出てきます。
体の調整は翌日からでも間に合うのですが、満たされなかった心はなかなか取り戻すことができません。
それらをその都度満たしてこなかった人が、依存心や幼児性の強い大人となってしまうのです。
また自分の欲求に抗わなかったことはすべて自己責任ですが、少なくとも「誰かから強制された」という被害者意識や強迫観念を持たずにすみます。
人は自分の責任の範囲でしか動かない
自由と自己責任は背中合わせです。
つまり自己責任である以上、自分で取れる責任の範囲でしか動きません。
けれども被害者意識や強迫観念は、他者の問題を背負うことです。
「あの人がこういったおかげで、自分はひどい目にあった」という部分は、他者の問題なのに自分が背負っている状態。
子どものころそれは「好き、嫌い」で解消していたのに、大人になると被害者意識に変換されてしまうのは「いい、悪い」という他者からのモラルで考え始めるからです。
そうして誰かの問題を自分で処理できずに、ずっと抱えたまま窮屈な日々を送るのは苦しいことです。
けれども自分で責任を負える範囲なら、何をやっても自由ではないですか!
ということで、その日のうちに心を満たして(昇華して)おくことは大切という話です。
決して深夜の労働者なみのカロリー摂取を、正当化しているわけではないですよ〜!
ブログのお盆休みをいただきます!明日8月11日〜15日まで、ブログの更新はお休みします。
帰省される方、レジャーへ行かれる方、どうぞご安全に😊
また16日からお会いしましょう!
Have fun♪
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- モラルは強制力を伴うこともある, 他者の問題を背負う, 自己責任は自由