感動が心のいちばんの栄養だと思った件
母が興奮して電話をかけてきました。
いつになくハイテンションで、それはそれは嬉しそうに前日行った場所をつぶさに説明しています。
「ブティックで素敵な和服の展示をしていたの。私はもうたくさん持っているから『拝見だけさせてください』って言ったの」
素敵な和服と帯の、組み合わせだったそうです。
母は衣服やアクセサリー、靴が大好きで昔からとても華やかな人です。
「和装、洋装ともにもう死ぬまでの分を持っている」と自他共に認める着道楽。
食べたものの感想まで変わってくる
母は普段人へ意見を譲ることは、あまりしません。
行きたいところへ自分で連れて行き、イニシアチブが人へ渡ると不機嫌になりがちです。
ところがこの日は珍しく「いつも私の選ぶ場所ばかりだから、今日の昼食はあなたが決めて」と友達へ選択をおまかせしたそうです。
するとその方が選んだのがカレーライス。(インド・カリーではありません)
母からするとカレーライスは家で食べるもので、外食としては適さないものです。
しかもお値段は1,600円!
その周辺には1,000円以下で食べられるお店はたくさんあったそうなのですが、その方が行きたいと言ったので従ったのだそう。
「そろそろ文句が出るのかなー?」と思いながら私は聞き続けます。
いちばんオーソドックスなビーフカレーを注文したらしいですが「極上のヒレステーキを使ったのかと思う、美味しさだったの!」とここでも大絶賛をするのです。
「あー、本当に好きなもので心を満たすと、見るもの食べるもの、相手の印象まですべてが変わるのだな」と思います。
本当に楽しそうにしていることを、案外本人は知らない
でも母は知らないのです。
自分では新鮮な野菜や、安くて美味しいものを探すのが好きなのだと信じていました。
近所の農家さんへ好物のトマトを予約したり、チラシを見て「今日はあれが安い‼︎」と発奮するタイプだと自分で思っています。
目で見て喜ぶものと、必要から生じる喜びを区別してみる
そんな母の傾向に私自身が気がついたのも、つい最近です。
というのも母は衣服をたくさん持っていますし、服に関しては私が付き添わなくても勝手に行くので放置していました。
けれどもある日偶然ブティックで、母が目をキラキラさせる場面に遭遇して確信したのです。
店員さんと話をするときも、本当に楽しそう。
しかもあれこれ散々試着をして、結局何も買わずに帰ってきてもウキウキしていました。
娘の私からすると、衣服系を見ているときの母の高揚の仕方が明らかに違う。
それらを見ているときにいちばん顕著なのが「不平不満を言わない」という態度に表れます。
普段の報告と共に混ざる一緒に行った人の悪口や、食事のまずさを延々と語ったりはしません。
ただ本人はざっくりと「買い物が好き」だと信じ込んでいます。
そこで服やアクセサリーを見ているときは、別格に嬉しそうだと伝えると「え、そうなの?」と戸惑っていました。
好きなものに対する心の感動に、理屈はかなわない
荒んでいる人へどれだけ「人のことを悪く言うのはやめて」とか「明るく物事を考えて」と言っても理解はできません。
そんなときに心の向きを変えてくれるのが、好きな物事から得られる感動ではないでしょうか。
旅行へ行って洗濯物しか入っていない鞄しか持ち帰らなくても、すぐまた次の旅行へ行きたくなります。
有形、無形関係なくスルッと魔法のように心へ入り込み、栄養を与えてくれるのです。
また感動は非日常でも、日常の些細なものでも構わない。
けれども大きな動きでも的外れな栄養では、逆に疲弊してしまいます。
しかもなまじっか好きなことをしていると思い込んでいるばかりに、不満の行き場を失うのではないでしょうか。
こんなに変化をするのなら
「いっぱい聞いてくれて、ありがとねー‼︎」と無邪気に言われて電話を切りました。
確かに子供のようにいっぱい話をしていましたが、後味の悪さはまったくありません。
連日ご近所さんや、親戚の毒を吐いていた人とは別人のようです。
でも嫌なことが重なったりすると、大なり小なり自分でもそうなることがあるのでわかります。
ですから自分の状態が悪くなると、感動を探すようにしています。
また幼い頃から母が着道楽だったように、私は食い道楽です。
食べ物が豊かな日本ではそこいらじゅうに感動の種は転がっているので、感動は得られやすいかもしれません。
皆さんもなにをしているときがハツラツとしているのかを、他者へ尋ねてみてはいかがでしょう。
「柿をかじっているとき」など案外自分が思わぬ部分で、輝いているかもしれませんよ。
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