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さまざまな境遇で寂しい気持ちを抱えながら、大きくなる子供はたくさんいる。

けれどもそれを実の親や周囲の人間が「かわいそうな者」とするのは、その子を見下している発言だ。

「私が離婚してしまったから、片親のあなたはかわいそうに」と我が子へ伝えている親。

離婚をしたのは親本人なのに、子供をかわいそうな子に仕立て見下すことで「自分のせいではない」と突き放している。

我が子を本当にかわいそうな子にしたくないのなら、自分が耐えて離婚をしなければいいだろう。

離婚をしなければやむを得なかった事情があったこと。
離婚をしなければもっと悲惨な目に子供をあわせていた可能性。

親が子供を「かわいそうな子」にしないために、離婚という選択をしたのではないのか?

その責任を放棄している親が「かわいそうな子」として我が子を育ててしまう。

片親がいなくなっても明るい気持ちで暮らしていれば、子供は親を片親だとは責めない。

子供は親と感情をシンクロさせやすいので、言葉がなくても親の苦しみも悲しみも理解する力を持っている。

それなのに「かわいそう」と見下すことで、子供を片親にしてしまった罪悪感から逃れようとしている。
離婚した責任を子供に転嫁している。

また周囲の人間から「かわいそうだ」と言われることも同じこと。
「あなたはかわいそうな人だから」と言っている人は、助けの手を差し伸べない自分への言いわけをしている。

大人たちの自己弁明の言葉で、子供の自己認識が「自分はかわいそうな人」だというすり込みに変わってしまう。

自己憐憫をしているときに起こる感情は「他者へ対する怒りと、悲しみ」
怒りと悲しみに駆られてしまえば、後ろしか見ることができない。

自分の出生まで遡り「自分など生まれてきてはいけなかった」と否定する。

大人になっても自分の将来を、明るい展望で見ることができなくなる。

責任を転嫁されているから、親が離別をしたのは「自分が生まれてきたからだ」という結論まで行ってしまう。

親にも他者にも、負い目を持っている。
負い目は人を卑屈にはさせるが、良くは転じない。

自分を罰する大人として育ってしまう。
自分を罰している者は、他者も罰する。

「かわいそう」というレッテルを無責任な大人に勝手に貼られてしまっているのに、自分がかわいそうだと信じ込む。
やがてその惨めさは、決して他者へ悟られたくない恥部となる。

恥部を隠そうとするせいで見栄を張り、他者に弱みが見せられない。
弱みを見せられないので、弱さを他者に知られそうになると攻撃に転ずる。

攻撃でパワーを使い果たし、本来の良さを出すことができなくなる。

子供を「かわいそう」だと呼ばないで、思わないで、思わせないで。
離別、死別、片親、それはすべてその子の運命として授けられたもの。

かわいそうなどと呼ばずに与えられた運命の中で、明るく幸せに育つよう守ってあげてほしい。

片親がいなくても負い目など抱かず、楽しく生きて行くことができれば自律心が早く育つ。

両親が揃っていても、いがみあっていれば心の平穏が訪れることなどない。

かわいそうだと言われ続けて大人になってしまった人たちも、自分をかわいそうだと思わないで。

本当にかわいそうなのは、あなたを「かわいそう」と呼ぶことでしか、自分の優位性を保てなかった大人たちだ。

そんなかわいそうな大人たちの呪縛からはもう逃れよう、離れよう。

自責の念も、後ろめたさも、すべてどこかへ捨て去って、今からでも自分を幸せにする道へ走ろう。

まだ間に合うから。いつでも間に合うから。


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