そういえば道を聞かれなくなった
交差点で信号待ちをしていたとき、私の隣に立った人が誰かから道を聞かれていました。
その光景を懐かしく見ている自分。
「セリも歩けば誰かから道を聞かれる」ではないですが、しょっちゅう見知らぬ人から道を聞かれていたのです。
それを周囲の人間は「優しそうに見えるからじゃない?いいことよ」と好意的に言ってくれていましたが、私は望んではいませんでした。
だいたい私は方向音痴ですし……。
なんでも私に聞かないで!
道だけならいいですが英単語の意味、食に関する知識、その他ありとあらゆることを誰か彼かが質問してくるのです。
「なんでも私に聞かないで〜!たまには自分で調べなさい!」といって怒っていました。
すると相手からは「だっていつも答えてくれるから」とか「なんでも知っているから」だと言われてしまいます。
それは人の知らないことだって、知っていることもありますよ。
けれどもなんでもとかいつでもというのは、まったくもって違うに決まっています。
それがいつからなのでしょう?
気がついたばかりなので、最後に道を聞かれたのがいつかも覚えていませんが、おそらく数年間道を聞かれてはいません。
愚痴を「聞いて」と言われて自分が了承しないかぎり、聞かなくなったから?
愚痴を聞いてもらうことは私にもありますが、それは愚痴のレベルです。
ときどき話を聞いているうちに、ただ聞いているだけの私が加害者のような話し方をされることがありました。
それは愚痴ではなく八つ当たりというもので、愚痴とは違う後味の悪さです。
「自分が聞いてもらうこともあるのだから、人の愚痴も聞こう」という発想から起きていました。
これは私が出していた「依存していいよ」のサインです!
依存する人は依存できそうな人を、常に探しています。
依存できそうな人を直感で嗅ぎ分けるセンサーのようなものを持っているので、知っている相手にだけ依存するとは限りません。
そうして私は「依存してもいいよ」というサインを出していたから、こういう人たちが集まってしまっていたわけです。
愚痴を聞くにも聞いてあげてもいい相手、いい時というものがあります。
それを「困っているから」とか「腹が立つから」と言われれば「それは大変!」とばかりに反応して、自ら八つ当たりを受けるような目に遭いに行っていました。
今では仕事以外のときには愚痴を聞いてもいい相手と、自分の気持ちに余裕があるときにしか聞きません。
また自分も愚痴を聞いてもらうときは、腹の怒りがおさまってからしか聞いてもらいません。
そうして愚痴ってもいいか?という了承を相手から得るようにして、話を聞いてもらいます。
すると依存してくる人がいなくなった
「困ったときはお互いさま」という部分もありますが、自分に被害者意識が出るような人助けは一切やめました。
いい人や優しい人に見られても、なんもいいことありませんから。
すると見た目は変わっていないはずですが、道行く人からさえ依存されなくなったのです。
そうして自分の周囲の人間も、私が依存させなくなると依存をできなくなったようです。
かつて私に依存をしていた人で、それでも関係性が途絶えなかった人の依存も止みました。
センサーがあるって、本当だったのですね〜。くわばら、くわばら。
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