旅行の最終日に
「あー、明日からまた仕事か」
とか、
「あー、また現実に引き戻されてしまう」
という言葉はよく聞くし、
かつての自分も言っていたことがある。
気晴らしで行ったはずの旅行先で
夫婦喧嘩などをしてしまったり、
旅館が心地よくなかったり、
食事がおいしくなかったりなどで
「疲れに行ったようなもの」
という残念なことはある。
これは他者からもたらされる残念感だから、
自分だけの力ではどうしようもない。
でも仕事に戻るのが憂鬱になってしまったり、
家庭に戻るのがイヤなのなら
問題は職場や家庭にあるので、
自分でなんとかすることもできる。
イヤな場所から逃げるためだけの行動は、
疲労するばかりで、
お金も時間も、
自分のパワーも無駄遣いすることとなる。
戻ってくる場所が心地よく感じられないと、
どれだけ逃げてもパワーがチャージされない。
本当の気晴らしをした後には
「よし!これで明日からまた頑張れる」
という気持ちになるのではないだろうか?
パワーチャージされないことは、
すべて気を紛らわせていることに過ぎない。
どれだけ自分の仕事や家庭を愛していても、
そればかりでは飽きてしまうし、
マンネリ化してありがたみも感じなくなる。
そんなことを再確認するための行為が、
「気晴らし」
の効用なのではないだろうか?
パニック障害になるまでは、
気の張る仕事をしてクタクタになり、
飲みに行くことで
気晴らしをしているつもりになっていた。
誰かから声がかかるとホイホイと出かけ、
くだらない話をして、
朝まで飲み明かすこともあった。
その場はそれで楽しかった。
でもその翌日に襲ってくるどうしようもない虚無感と、
疲労の蓄積は1日のんびりしたくらいでは、
取り去ることはできず、
疲れが取れないまま再び
「気晴らし」
と称した現実逃避を何年も続けていた。
夫婦間の問題から目を逸らすため、
好きでもない仕事をしている自分から目を逸らし、
なにも変えないことで
「家庭を守っている」
気になっていただけだった。
そんなことできるはずもないのに。
病気になって
我慢することを極力避けるようになり、
その頃の自分を振り返ると、
なんて愚かなお金、時間、パワーの
無駄遣いをしていたのかと思えた。
逆を言えば病気にならなければわからないほど、
自分のことを大切にせず
「自分ならできる」
などと根拠のない過信をしていた。
本当に傲慢なことだ。
こんなことを書いたのは、
昨夜友人の訃報が入ったから。
同い年(47歳)のとても優しい男性。
見た目年齢-10歳でも十分イケるほど若々しく、
我が家に飲みにきてくれたこともある。
超イケメンで隣に座られると、
ドキドキするほどだった。
面倒見がよく誰からも慕われていた。
5年前に私が病気になって以来会っていない。
その間に彼も大きな病気になってしまって、
やはり誰にも伝えていなかったそうだ。
素敵なマンションに住んで、
奥さんもお子さんもいる。
でも毎晩のように飲み歩いていた。
いつも場の聞き役として存在する静かな人で、
自分の話をすることはあまりなかった。
亡くなった連絡を受けてからずっと、
イケメンのはにかんだ笑顔ばかりが頭に浮かぶ。
どんどん彼と交わしたたわいもない話が思い出される。
こんなに一緒の時間を過ごしていたのかと、
改めて思った。
病気前の私と同じ思いで飲み歩いていたのかなど、
想像の域を出ないから考えても仕方がない。
でも本当の意味での気晴らしができていたのかな?
自分のやりたいことをやっていたのかな?
もう一度あの笑顔に会いたかったな。
彼の魂が安らかでありますように。
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