幼児性の強い人は、自分で決めるのが嫌い

幼児性の強い人は自分の意思を決定するのが、そもそも嫌いです。

将来仮面ライダーになりたいと言っている幼稚園児に「公務員になりたい?銀行員になりたい?」と聞いてもわかりません。

それくらい自分の決定したいことが、わかっていないのです。

だけれども自分の年齢が、大人なのはわかっています。

そうして何も決めることができない、自分の力量を恥じています。

そこで健康的な思考の人は「自分の意思を決められる成熟した人間になろう」と決意するでしょう。

幼児性の強い人にとって、成熟することにメリットはない

一方で幼児性の強い人は「いかに自分は子供のまま、他人の力に乗っかろうか?」という思考回路が働きます。

大人になってしまうと、自力で動かなければならないから。

歩く体力の少ない幼児でも、走りたくなったら親の制止も聞かずに走ります。

そうして走りたいだけ走ると、抱っこをしてもらえます。

自分で歩かなくていいのは楽だから、子供のままの精神性でいようとする。

本人はなんのデメリットも、感じていないのです。

それでもお腹は減りますから

それでも生きていればお腹も減るし、お腹を満たしたくなります。

ここで成熟した大人は、特に疑問も持たず自分で食料を探しに行きます。

だけれども自分で力をつけることの方が、デメリットだと考える幼児性の強さは「誰かに持ってこさせよう」とします。

私が思うに、コバンザメのようなイメージです。

自分は泳がず大きな魚にくっつきながら移動して、くっついている魚のエサのおこぼれをちゃっかりもらいたい。

大きな魚にくっついていると外敵からも狙われにくく、より安全性も増します。

しかもくっついているだけで、ご馳走にありつける。

こんな天国は手放したくはないのは、わからなくもないのですが……。

足りないのは自由さ

コバンザメのように誰かに乗っかって生きるのは、とても楽でしょう。

だけれども1つだけ足りないのは、自由自在さです。

大きな魚の行く場所にしか、行くことができない。

エサだって自分で選ぶことができない。

ここで本当のコバンザメなら、自分に自由がないことすら考えないでしょう。

だけれども人間コバンザメには知恵があるので「大きな力をコントロールする」ことで自由を得ようとします。

「食べるのなら(自分は動かずに)こんな魚がいいな」。

最初は大きな魚に「くっつかせて」と言っていただけなのに、要望を言い始めます。

要望は本音ではないことが多い

ここで注意が必要なのは幼児性の強い人の要望は、本音ではないことが多いです。

仮に「自分はクッキーを食べたい」と言っても、本音かどうかが疑わしいのです。

それは冒頭に書いた「自分で意思を決定するのが嫌い」なことに起因しています。

「自分で決めてしまったらクッキーがまずかったときに、なにを言われるのだろう?」といった思考へつながります。

そこで相手を振り回し始めて「自分が食べたいと言ったわけではないからね」といった体裁を整えることを始めます。

相手が大人だという認識を、成熟した人は持ちます

そんな幼児性の強さを大人が隠し持っていることに、成熟した人はなかなか氣がつきません。

自分の「意思決定をしたくない」というのは、成熟した大人にはない発想だから。

ではなぜ振り回されてしまうのでしょう。

こんなことはありませんか?

本当は幼稚園児なのに、小学生並みの体格をしている子供。

その子供がいくら「幼稚園児」だとわかっていても、体格でつい小学生扱いをしてしまったこと。

人間は見た目の印象を優先するので、大人には大人として接します。

だから幼児性の強い人だということに氣がつくには、時間がかかる場合もあります。

さんざん振り回されたあげくに「いいかげんに自分で決めてよ!」と幼児へ怒るように言いたくなるのです。

幼児へ怒るようにと書きましたが、心は本当に幼児なのです。

「お膳立ては自分の仕事ではない!」というのが本音です

幼児性の強い人は自分が怒られた理由を、理解することはできません。

ただ「怒られた」という被害者意識が残るだけ。

たとえ自分が言いだした「クッキーを食べたい」という言葉を反故にしても、怒られた事実で簡単に怒りだします。

おもちゃ箱をひっくり返して、片付けをせず怒られた子供と似ています。

「自分は片付けられないの知っているでしょう!」といった怒りがわきあがるのです。

「自分はコバンザメで、エサを捕まえるのは大きな魚の仕事」といった発想です。

ましてやクッキーが欲しいのは、自分で決めたわけではないことになっています。

そこで「クッキーを食べたい、あなたに付き合っているのに!」と思っています。

振り回された人の怒りは「付き合ってあげている自分へ文句を言った人」という風に変換されてしまうのです。

氣まぐれや、氣が変わることは誰にでもあります

最後に書いておきたいのは氣まぐれや氣が変わることは誰にでもあり、悪いと言っているわけではありません。

けれども他者を巻き込むほどの氣まぐれな人の心の動きは、成熟した人にとって理解しづらいかと思います。

「無責任」の奥には強い幼児性が備わっているということです。

はっきりとした返答をしないのも、質問に対してズレた答え方をするのも「どうして自分があなたの代わりに決めないといけないの?」といった不満からです。

だから振り回しにあっていると感じるや否や「大人の人間」だといった認識は手放したほうが賢明です。

早期にコバンザメを自分の体から離すことへ、成熟した側が思考を切り替えてみてください。


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