好き嫌いは誰のため?
多くの人が「好き嫌いをしてはいけない」とか「そんなに悪く言ってはいけない」という教育を受けたことがあるのではないだろうか?
ここで言っているのは、親が対外的に「(子供の)教育がなっていない」という批難から逃れるためになされる教育の場合だ。
本当に子供のためを思って言っていることもあるのだけど、自分たちのためということも多い。
もし「にんじん嫌いなの?偉いね」などと対外的に親の教育がほめられらば、親も無理して食べろとは言わないだろう。
親のために嫌いなものを嫌いだと言わせてもらえず、飲み込む癖を覚えた人は、正直な想いを口に出すことができなくなる。
自分の「好き」なものごとには仲間を募り「嫌いなもののない自分」を披露することで自己承認欲求を満たそうとする。
けれども誰かからそれを「嫌い」と言われると、全人格を否定されたように思い悩む。
嫌いという言葉を自由に発する人を蔑み、軽蔑、批難をして、「わがままを言わない自分」を優位に立たせようとしてしまう。
そうしてずっと抑圧をしてきたストレスが無意識に「嫌い」を口にする人への嫉妬として向かう。
自分にとっての好き嫌いが許された子
一方で幼いころから「嫌い」を自由に言えた子は、大人になっても自分の愛する物事を嫌う人には無理して近寄らない。
「あなたは嫌いなのね」と相手の考えとして受け止めるだけ。批難もしなければ、軽蔑もしない。
「自分とは関係のないこと」と相手の問題をいいとか悪いとかではなく、切り離して考えることができる。
ただ「自分はそれを好きではない」と伝えて、その人から去っていくだけ。
上手にできるからと言って「好き」とは限らない。
才能があるからといって「ずっとやっていたいこと」とは限らない。
「こだわり」というものは好きからも、嫌いからも生まれる。
嫌いに立ち入らないためにはどうするか?という思考は、嫌いを自覚して味わっていなければ生まれてこない。
いかにして嫌いを好きにするか?ではなく嫌いをどのように避けつつ、自分の好きなことができるのか?
または好きなことをするために、嫌いをどの程度まで自分のなかで許容するのか?
「自分にとっての嫌い」をはっきりと明確にしていなければ、いつまでも他者から見た「好き」を追い求めてしまう。
嫌いも出しかた次第では、人のためになる
知人に面白い人がいる。
評判のレストランへ行き「この料理はこの素材が最低だった。トイレが汚かった」など、自分が嫌いだったと思う部分を後日談として教えてくれる。
けれども決して同行者の前では言わない。
あくまでも後日談としているのは、知人が感じた店の欠点に気がつかず楽しんでいる人もいるからだ。
そういう人たちまで、気分を害させる必要はまったくないから。
また現地では主観にとらわれていて、数日経ってから自分の印象が変わる可能性もあるからその場では言わないのだという。
帰ってきてから、少し熟成させて(!?)人へ伝えているのだそうだ。
私がその店へ少なからず興味があった場合、知人の情報はとても信頼ができる。
知人の言っている嫌いな部分が自分の嫌うポイントと同じならば、行かないという判断ができ、無駄足や無駄な出費が防げる。
また嫌うポイントが違った場合は、行って自分の目で確かめようと思う。
知人はその店を悪く言っても、私へ決して「行くな」とは言わないのも素敵なところだ。
実際行ったときによい評判ばかりに期待を膨らませず、ニュートラルな気持ちで行けるというのはとてもありがたい。
知人が言っているほど悪くはないお店の印象だったら、お得な気分になる。
それに知り合いが言っているより、自分の印象の方がもっと悪かった場合でも、教えてくれていたおかげで落胆せずにすむ。
嫌うという行為はネガティヴなものとして捉えられがちだけれども、知人を見ていると好きと同様のポジティブなものに感じる。
嫌いを好きにしなくていい、嫌いを感じる自分を否定しないで自分にも人にも役立てよう。
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