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お気に入りのお皿を割ってしまった。

「このお皿が私の身代わりになってくれた。ありがとう」と破片を拾い集めて新聞紙に包む。

 

私は買い物をするときに「熟考型」ではなく「直感型」だ。

直感で「欲しい!」と思うと迷わずに購入するので、よく男前だと言われる。

少し考えることにして「やっぱり欲しい」と後で買いに戻ったということは滅多にない。

けれども直感でこれはいいと感じるものは、そんなにしょっちゅう目の前に現れない。

だからたまにそういった商品に出会えると、お家に連れて帰って大事に使う方だ。

一目で気に入って買ってから、まだそんなに経っていないこのお皿も大事にしていた。

その日に限って急いで洗い、水切りカゴに不安定な状態で入れて、床に滑り落ちて割れた。

私の不注意だ。

 

以前の私なら「縁起でもない。これはなにか不吉なことの前触れだ」と反射的に思っていた。

けれども今は「大切なものが壊れたときほど、大事に至らぬよう身代わりになって厄落としをしてくれた」と思うようになった。

「なにか悪いことが起こる」と考えていたときは、その後けがをしたり人間関係がおかしくなったり、ほぼほぼ変なことが起きていた。

そうして「やはりあの予兆は正しかった」と信じていた。

けれどもある人から「それは壊れた物に失礼だ」と一笑に伏されたことがあった。

言われてみれば、確かにそうだ。

物にも魂があるのなら壊される前までは愛されていたのに、壊れたとなった途端に「不吉な物」に代えられた。

持ち主の不注意で壊されて、その後持ち主に起こるさまざまなイヤなことまで「自分のせい」にされればたまったものではない。

けれども自分の不注意とはいえ大切に思っていたものが、壊れて失くなってしまうのはショックで寂しいことだ。

だから「厄落としをしてくれた。ありがとう」と思うようになったら、実際に悪いことは起こらなくなった。

 

人間関係も同様に考えるようになった。

大切に思っている人からイヤなことを言われたり、裏切られたりすれば衝撃的に寂しい気分に襲われる。

信頼関係にまでヒビが入ることもある。

自分が大切に思えば思っていたほど、壊れたときのショックは大きい。

壊すのは本当に一瞬で簡単だけど、壊れてしまったものは悔やんでももう元には戻らない。

自分の元から去られる寂しさを「あんたのせい」にしてしまったら、信頼するほど素敵な時間をくれた相手に対しても、大切にしていた自分両方に対して否定をすることになる。

それまで喜びを与えてくれていた相手に対して失礼だ。

どんなにイヤなことを言われても、裏切られたと感じても「ありがとう」と思って別れることにした。

するとその後出会える人たちは、壊れた相手よりさらに自分に喜びを与えてくれる人と出会えるようになった。

 

このお皿との付き合いはとても短い期間だったけれど、素晴らしい時間を私に与えてくれた。

「私の元へきてくれて、楽しい食事の時間をくれてありがとう」

お皿へ感謝を告げて別れた。


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