レバノンの詩人、カリール・ジブラン著「預言者」より。
愛し合っていなさい。
しかし、愛が足枷(あしかせ)にならないように。
むしろ2人の魂の岸辺と岸辺のあいだに動く海があるように。
おたがいの杯を満たし合いなさい。
しかし、同じひとつの杯から飲まないように。
おたがいにパンを分け合いなさい。
しかし、同じひとつの塊を食べないように。
一緒に歌い、一緒に踊り、共に楽しみなさい。
しかし、おたがいに相手をひとりにさせなさい。
ちょうど、リュードの弦がそれぞれでも同じ楽の音を奏でるように。
おたがいに心を与え合いなさい。
しかし、自分をあずけきってしまわないように。
なぜなら、心というものは、あの生命の手だけがつかむもの。
一緒に立っていなさい。
しかし、近づき過ぎないように。
なぜなら、神殿の柱はそれぞれ離れて立ち、
樫の木と杉の木はおたがいの陰には育たないのですから。
この詩は「結婚について」の一部抜粋だけど、
これは人間関係全般に言えるのではないだろうか?
相手が悪いのか?
自分が悪いのか?
そんなこと悩んでも無駄だ。
合わないものは合わない。
ただそれだけ。
いいも悪いもない。
合わない原因として、
「適度な距離感が保てない」
ということがままある。
部下に無理なノルマを押し付ける上司。
土足で人の心に踏み込んでくる友人。
勝手に自分の机の引き出しを探る家族。
全部距離感の問題だ。
親と適切な距離を取れずに育ってしまうと、
他人や社会との距離感がうまく取れない。
離れすぎても孤独だし、近づきすぎると息苦しい。
相手と適度な距離感が保てないなら、どうあがいたって
そこが居心地のいい場所にはならないのに、
無理してそこに居続けようとして、心も体も壊してしまう。
近づきすぎた。
近づかれすぎた。
どちらを許しても、誰ともいいことは起こらない。
どんなに素敵な場所だって
心が曇ってしまうような相手がいる場所なら、
素敵には見えない。
逆にどんなにみすぼらしい場所だって、
居心地のよさには変えられない。
自分から適度な距離を保てる練習を、してみるといい。
心の距離感がわからなければ、
物理的な距離を、ぐーっと開けてみる。
するとあんなに離れてはならないと思っていたのに、
ホッとしている自分がいることに気づくことがある。
月に1回会うくらいなら心穏やかでいられる相手。
週に1回だとどうだろう?
3日に1回?
あるいは年に1回でも心がざわめく。
相手と会う頻度を変えることで、
その人との適度な距離感を探ることができる。
いい感じの距離が見つからない相手とは、
どんなに大切で手放したくなくても離れる。
自分を大切にすることって、そういうことなのだと思う。
それがお互いのためでもあるのだ。
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