不安の上にはどんな快楽も成立しない

いくら乗り物が大好きな人でも、整備不良の可能性のある飛行機だとわかっていたら乗らないでしょう。

美しい景色を眺めるのに熊が出没するとわかっている場所で、景色に没頭できますか?

どれだけ美味しい食事を前にしても、その建物が今にも倒壊することがわかっていたら、味なんてしないのではないでしょうか?

不安感の前で、人の心は荒みます。

郷に入っては郷に従うにも限界がある

私が幼少時に住んでいたアフリカのタンザニアという国はインド洋に面していて、フルーツも採れ放題の子供にとっては天国の様な国でした。

タンザニアでの暮らしの様子を書いた過去記事はこちらから→ただ笑っていてほしい

反面当時のタンザニアは、治安も悪く医療の不足や衛生面も日本とは遠く及びません。

遠く及ばない部分はどの外国人家庭も、親が子供たちを危険にさらさないよう最大の注意を払っていました。

現地人たちは水道水を飲む免疫力が体に備わっていますが、私たち外国人が1口でも飲むとたちまちコレラや赤痢に罹ります。

命の綱の水は、死の危険のある水でした。

ミネラル・ウォーターも売っていない発展途上国でしたから、必ずフィルターにかけた後、煮沸して冷ましたものを飲んでいました。

誰も「早く免疫力がつくように体を慣らせ」などと言う人はいません。

自分を守るためには自分の免疫力の高さを知っておかなければ、横並びにしても死の恐れが出てきます。

経験した者にしか分かり得ない情報がある

私が日本へ帰国した1980年当時は今のように発展途上国の画像を、まだ存在しないネットで観ることもなければ、テレビや新聞の情報として流れてくることも稀でした。

発展途上国に住んだことのある人も、かなり限られていました。

いわば「経験者たちの間でしか、共有できない情報」を私たちは持って帰国したのです。

だから水道水が蛇口から直接飲める幸せを、学校の同級生や大人たちへ伝えても理解はしてもらえません。

それをわかってもらおうと詳しい話をし始めると「悲劇のヒロインぶって」とか「帰国子女の自慢話」という角度で切り取られて、傷付いたこともあります。

傷つけた人たちを責めているのではなく、自分の気持ちや特殊な経験など、経験していない人へわかってもらおうとしても無理なのです。

また体の免疫力のあるなしも、同じ人間では雲泥の差があります。

免疫力の強いアフリカ人を前に「自分は弱い」と嘆いても、免疫力は上がるものでもない。

人にはそれぞれの耐性(強さ)と環境への適応力というものがあるのです。

まず自分の耐性と適正が他者の意見に振り回されず、どの程度のものなのかを知る必要があります。

長くなりますので、また明日続きを書きます。


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