見た目ぜんぜん大丈夫そうではないのに、
大丈夫かと聞くと無理して作り笑いをしながら、
「大丈夫!」と答える人がいる。
「それを見ている私がつらいから、私はもう帰るね」
といえば
「わかった」と引き下がる。

激しく咳をしているので
「風邪をひいた?」と聞くと
「ぜんぜん」
と答える人がいる。
「風邪が人にうつると困るから、今日の外出はやめよう」
と言えば
「そうだね」とホッとしたような表情になる。

まぶたが下がって頭がグラグラしているのに、
「眠くない!」と言い張る人もいる。
こちらが
「私が眠いから、もう寝るね」と言えば
「わかった。じゃあもう寝よう」
と言われるまで自分からは眠らない。

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面倒くさい人たち。

自分で自分の弱さを認められない。
人に弱みを見せられず虚勢を張るための常套手段だ。

相手が折れてくれるまで、強情にも譲らない。

 

批判的な大人のなかで育つと、こうなってしまう。

食事の時間ではないときにお腹が減ったと言えば、
「ちゃんとごはんを食べなかったからだ」
と言われたり、
病気になれば
「昨日夜遅くまでテレビを見ていたからでしょ!」
と空腹や病気で困っていることより
今さらどうしようもないことを、追求される。

授業中にトイレに行きたがると
「なぜ休み時間に行っておかなかった?」
と教師からも、
意味なくトイレに行きたい理由を問われたなどなど。

「そらみたことか!」
と自分を厄介者扱いするための地雷が、
家庭にも学校にも埋められている。
どこに地雷が埋まっているかわからないから、
本当に心配してくれる人の言葉まで疑るようになる。

 

ごはんをちゃんと食べないことを、許したのは大人だ。

前日夜遅くまでテレビを観ることを、許したのも大人だ。

休み時間のときはトイレに行きたくなかった。
でも急に行きたくなってしまうことだって、
大人にもあるだろう。

 

責任はぜんぶ大人にあるのに、
それを子供に被せてしまっている。
子供の要求を通す前に、自分の都合を押し付けている。

そんな環境で育つと、弱みは見せられない。
やりたいことを、やりたいという本音も言えない。

大人になっても自分が批判されてきたように、
友人や職場の同僚、上司にも批判的になってしまう。

批判という鎧(よろい)を着て歩かなければ、
自分がまた批判される目にあってしまう。

責任を他人になすりつける卑怯な大人に育つ。
そうして周りは、敵ばかりに見えている。

唯一敵にならないのは、
「自分の本音を追求せずに、負けてくれる人」
ということになるから、そんな相手はそうそういない。
親だって自分の子供を生きづらく、
寂しい大人にするために育てたわけではないはずだ。

 

面倒な人になってしまった人は、
「あれは子供のころ、自分の周りの大人が幼かったから」
だと許して、今はあなたが大人になる番だ。
もうあなたを批判をする者はいないのだと、
着ている鎧を脱ぎ捨ててほしい。

自分の子供に面倒くさく、
寂しい人間に育ってほしくない親は、
今いちどその批判が
誰のためのものなのかを考えてほしい。

子供を厄介者にしていないか?
自分に手間をかけさせないよう、
子供に不要なコントロールをかけていないか?

 

面倒くさく育っても今すぐ重たい鎧を脱げば、
軽やかになり、生きづらさはやわらぐ。
そうして次の世代への不幸な連鎖を防ぎ、
幸せを与える人物に成り代わることができる。


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