面倒くさいことに気がつく重要性

好きだとか嫌いとか関係なく、面倒くさく感じるってことありますね。

それまで良好だった人間関係が、突然面倒なものに思える。

大好きなのにペットや、植物の手入れを面倒くさく感じる。

私は料理が好きですが、後片付けは面倒くさいことがある。

いくら料理が好きでも疲れているときは、ヤカンにお湯を沸かすことすら面倒くさくなることがあります。

それって実は求めていることと、違うことをしているんですよ〜。

それを「疲れているだけ」に変換しています。

疲れさえ取れれば自分は頑張れると、自分を騙して嫌なことをしようとしているとき。

だから「めんどくさ〜」って感じるときは「自分のやりたいことから、それていますよ」という大切なサインなのです。

面倒なことを克服する方法を探す前に、そもそもなにを得ようとしているのかと考える

面倒くさいなって感じるときは別のなにかや、他の誰かのためにやっていることになります。

そこで発生するのは被害者意識という厄介者。

私の例で言うなら料理が好きでも片付けはイヤだというときは、誰かを喜ばせるために作っているのです。

誰かというのは「自分も含む」誰かですが、それと自分で料理をすることはイコールではないですよね。

自分や誰かを喜ばせることは、他の手立てを使ってもできるのです。

では誰かが喜べばいかなるときも、片付けは苦にならないかといえばそれも違います。

それだと誰かを喜ばせるのには、作りたくないときも作るしかない。

また本当に自分の作りたいものがあるときは、1人だろうと誰かの分が含まれようと料理も後片付けも苦にはならない。

いかなるときでも料理が好きなわけではない。

自分にとっての料理という行為は、自分や他人を喜ばせることができるツールのひとつでしかないのです。

面倒に感じるときほど「あるなか」ですませようとしているとき

冷蔵庫に人参とジャガイモしかないのに、豪華な料理は一流シェフでも作れません。

都会でグランドキャニオンのような、壮大な風景を見ることはできません。

人間関係がわずらわしく感じてしまうのも、その人個人の要望に嫌われないために応えようとするからです。

いつも限られた選択肢(ツール)のなかで、仕方なく行う行為が「面倒くささ」につながっているのです。

つまり面倒くささを乗り越えた先には、さらに面倒なことが増えるだけ。

そうやって選択肢をどんどん狭めていけば、より狭い選択肢と被害者意識を元に視点や発想が生まれてきます。

試行錯誤は大切ですが、面倒くさいと感じることから試行錯誤は生まれないのです。

面倒だと感じるときほど、試行錯誤(軌道修正)を始めるいいチャンスなのです

さらに面倒くさいを深めていくと、生きることそのものが面倒くさいと感じてしまいます。

甘えという考え方もあると思いますが、実はこれは選択肢が狭くなっているということだと私は思います。

そうなる前に、軌道修正を図ることがいちばんです。

それほど面倒くさいと感じることは、人間から気力や体力を奪ってしまうのです。

だけれども生きることそのものが面倒になった人でも、試行錯誤をするかしないかで少しずつ生きる気力を取り戻すことができます。

そのいちばん手っ取り早い方法が、小さくても面倒くさいを避けるということ。

そうしてどう試行錯誤をすれば「自分は面倒くさいことから逃れられるのだろう?」という発想に切り替えるチャンスの到来です。

そこで出てきた試行錯誤が面倒と感じることでなければ、実は面倒だと思っていたことが反転することもあるのです。


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