タンザニアには当時、日本語補習校しかなかった。
児童数は幼稚園児と小学生を合わせて、わずか20人ほどしかいない。

補習校と言っても日本大使館の臨時職員だった若いお兄さんが、
週に1度だけ、子供たちとキック・ベースボールなどで遊んでくれるていど。
勉強することは、ほとんどなかった。

約20名の子供たちは全員インターナショナルスクールへ通っていた。

隣国ケニアには全日制の日本人学校があった。
住み始めて半年後には、
子供たちの日本の教育の遅れを懸念した日本人会の父兄により、
ケニアから日本人の先生を1人招き入れた。

午前中はインターナショナルスクールへ行き、
いったん帰宅して昼食をすませる。
午後には週に3回日本人補習校へ行き、
国語と算数だけ勉強をするという生活になった。

インターナショナルスクールはイギリス人経営だったので、
イギリスから派遣されてくる教師がほとんど。
そのなかに少数ではあったけどアメリカ人や、
オーストラリア人の教師もいた。

授業時間は朝7:00〜12:00まで。
暑い国では比較的 涼しい午前中に、
授業を終わらせましょうという方針だ。

治安がよくないので、
子供たちだけで外出することは禁じられていた。
どの家庭も親や、運転手の車で通学していた。

始業が早いので6:30には家を出なければならない。
朝ごはんを食べてこれない子たちのために、
9:00になると「 break time」という45分間の休憩がある。

この時間は世界各国の子供たちが、
自分たちの家庭で食べるものを持ってくるので、
たまに交換したり味見をさせてもらったりして楽しみにしていた。

日本にいたころ私は、
扁桃腺をしょっちゅう腫らして熱を出すので、
学校も休みがちだった。

情緒が不安定でいじめにもあっていたし、
勉強もできなかった。

「自分は他の子より頭が悪い」
と諦めていじけていた。

ところがタンザニアに移り住んで母が楽しそうに生活を送り始めると、体もとても丈夫になった。

病気は蚊が増える雨季に、
家族全員が 毎年1度、年中行事のようにマラリアにかかった。

マラリアは月に1度服用する予防薬があったのだけど、
これは強い薬らしく肝臓を痛めるらしい。
「肝臓を取るかマラリアを取るか」
で大人たちはよく談義をしていた。

究極の選択だけど、どちらを取っても体のダメージは大きい。
結局我が家はマラリアを取った。

マラリアにかかると、40度前後の高熱が1週間続く。
病院に行っても薬がないので、医師からマラリアと診断されても
「水分をじゅうぶんとること」
としか言われない。

高熱が1週間続いても、寝ているしかない。
1週間後にはすっかり足の筋肉が衰えてしまう。
熱が下がってベッドから立ち上がろうとしたときに、
膝からカクっと崩れ落ちた。
「あれー?」
と思って立ち上がろうとするけれど、
足に力が入らないほど消耗する病気だった。

その他の大病は外食をしたときに
瓶入りの飲料が品切れで、喉の渇きに耐えられず
水で薄めたオレンジ果汁のジュースを頼んで、
コップ1/3も飲んでいないのに当たってしまった。

大腸カタルという赤痢の一歩手前の病気だった。
これも高熱が1週間続いた後に治った。

これら2つの病気をした以外は
日本にいたころのように、しょっちゅう病気をすることはなくなった。

自分は体が弱いと思い込んでいたので、
体調に不安がなく行動ができるということはとても大きかった。
学校もほとんど休まずに通い、
いじけていた性格も、明るくなっていった。

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