骨折した箇所は、以前の骨より強くなっている
骨折をした箇所の骨は、骨折前より強くなると聞いています。
いろいろなクライアントさんの話をお聞きしていると、格段に強くなる人がいます。
するとまるで骨折の後の骨のようだと、感じてしまうのです。
強くなった人の経緯は、ほぼほぼ誰もが同じです。
まずきちんと休む時間を取って、それから少しずつ自分の気持ちと向き合う。
静養中、今後どうしたいかを冷静に考えている。
そこで短期的にでも「どうしたい」というのが出てきたときに、すごいパワーが出てきていることを感じます。
骨折をするとバキッと折れてしまった骨を固定して、再びくっつくまで待つしかない。
けれども骨折した箇所の骨は、以前より強くなっている。
そうして以前より自信を持って動くことができるというのは、心と似ていませんか?
療養中は動けない辛さや痛みを味わい「自分が治ったらなにをしたいか?」を考えながら、生きているということも含めてです。
自分を振り返っても同じなのです
自分自身を振り返っても、動けなくなって初めて「こんなに無理をしていた」と気がつくことがありました。
無理をして他者の要求に応えようとしたことや、絶対に守りたいと思う人を体を張って守っていたり。
頭髪が抜け落ちて薄くなるほど疲弊をして、ある日ポキンと折れる経験をこれまで何度かしています。
だけれどもそこから回復するまでの間に、自分の方向性の間違いや、無理な力加減などが浮き彫りになります。
そうして大きく修正を迫られることは積極的に修正し、そうではないことはそのままで行くといった加減を模索してきています。
だから私自身に関して言うと折れて静養すれば、少しずつポテンシャルが上がってくることを知っています。
さらに同じ状態をクライアントさんから目の当たりにすると「折れて治した人ほど強くなる」という人間の本来の持つ力を否定できないのです。
疲弊と事件が合わさって、人間は折れる
すべては何かに抗おうをして疲弊を重ねていたときに、折れるきっかけとなる事件が発生していました。
そうなのです、疲弊していなければ折れなかったはずなのです。
疲弊だけでも心は折れないし、事件だけでも折れません。
これだけは過去のクライアントさん、どの人の話を聞いていても同じです。
だから自分の疲弊の度合いを、いつも客観的に知ることは大切なのです。
けれども近すぎる人には疲弊が「(近すぎる人の)悲しみ」と映るので、あまり正確な指摘をもらえません。
そんなときほど遠い人へ客観的な判断をしてもらうのは、とても有益なことだと思います。
折れること自体に、悪い印象を持たないほうがいいのです
折れないために動こうとすると恐る恐る動いたり、体をかばって動くことになります。
するとかばった部分のカバーをしたパーツに負担がかかり、結局疲弊は免れない。
下手をするとかばった部分とかばわれた部分、双方が長い時間をかけてダメージを受けることもあると思います。
だから折れさせないことにフォーカスを置かずに、疲弊をさせた原因を知ることが大切です。
鎖骨だけは折れると、そこがもろくなるようです
ただ鎖骨だけは、折れた箇所はもろくなるようです。
心も「これだけは」という受け入れられない、泣きどころが誰にでもあるのです。
これだけは幼児体験も深く関わることがあるので、千差万別なのです。
人によって押さえつけであったり、争いであったり、怒鳴り声だったり……。
これらを受け入れることは最も人を疲弊させて、心をもろくさせます。
相手がどれだけ好意を持ってくれているとか、善良な人とか関係がありません。
ただそこが「鎖骨だから」という理由なだけで、理屈ではない泣きどころなのです。
だから鎖骨に攻撃を受けるシャワーからだけは、誰もが防御するべきなのです。
鎖骨には常識とか幼児性とか関係なく、成長させられない(かもしれない)自分の一部だということを認めることは大切だと思います。
まずはあなたの鎖骨(最も弱らせること)が何だったのかを、自身の過去から知る。
そうして「鎖骨を守ってあげられるのは自分しかいないのだ」と鎖骨への攻撃を躱す(かわす)。
次に鎖骨以外の骨折を恐れない。
それだけで、ずいぶん強く生きていくことができるのではないかと感じます。
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