先週書いたブログで、数名の人から同じ疑問を持たれました

先週5話に渡り、母の脳梗塞について書きました。

母が脳梗塞になりました 〜前兆もなくいきなり麻痺が起こる病気です。家族としての対応は?←はこちらから

母が脳梗塞になりました 2 〜容態が良くなったかのように見えるのが、この病気の怖さです←はこちらから

母が脳梗塞になりました 3 〜最も悩んだ新薬の使用同意、事前に家族で話し合いを持っておくご提案←はこちらから

母が脳梗塞になりました 4 〜本人がいちばん納得の行く治療を選びたい←はこちらから

母が脳梗塞になりました 5 〜そもそも脳梗塞ってどうして起きたの?←はこちらから

すると数名の人から「親に対してわだかまりのある自分が、親の一大事に(私のように)動けるだろうか?」という疑問を抱くご連絡を頂きました。

これらの人たちの抱かれている疑問は、物理的に迅速な対応ができるか?という疑問ではなく、親に対する気持ちのわだかまりが邪魔をして、自分は親が緊急事態に陥っても心理的に動けないのではないだろうか?という疑問です。

親から受けた辛い記憶の程度の差もあれば、本人の現在の心や体の健康状態にも関わるので、対応もそれぞれ異なるのが当然だと思います。

条件反射的に行ってしまう「自動思考」を知る

人間には条件反射的に従ってしまう「自動思考」というものがあります。

大好物が盛り込まれたお皿があって大好物から食べる人、最後まで取っておく人。

いわゆる長年の経験から、自分なりに編み出した心地よさを追求するための思考回路です。

深い考えもなく行っていますし、大好物を先に食べようが、最後に食べようがいいも悪いもありません。

獣医学の博士過程の学生さんと愛犬の死

獣医学の博士過程の学生さんの飼っていた愛犬が、突然死した際の話です。

元気に飛び跳ねていた愛犬が、突然苦しみ出してあっというまに亡くなってしまったそうです。

そのときはものすごく悲しくてたまらなかったそうですが、ひとしきり泣いた後、愛犬の死因が知りたいという欲求が出たそうです。

人間だろうが動物だろうが、愛する者に謎の死を遂げて欲しくないというのは当然の考えです。

そうして研究者として自分で追求することができるのなら、私でも知りたいと思うのです。

愛犬を解剖台に乗せたときのことでした。

それまで悲しみの対象にしか見えなかった愛犬の亡骸に対して、突然「まったくの無感情になり、物体にしか見えなくなった」と話してくれました。

自分の飼っている動物を解剖したのは初めてだったそうで、そんな自分の無感情に困惑し「不思議ですよね」と首を傾げていたのです。

解剖台の上の動物=研究の対象という自動思考の訓練がなされていたからです。

亡くなったワンちゃんを、どれだけ愛していたかなど関係なく起こる無感情だと思うのです。

長年動物の病理に携わった人にしかわからない感覚ですが、解剖台の上の動物にいつも情をかけていたら研究は成り立ちません。

このように自動思考というものは、さまざまな欲求の元に作られていくものだということで、いい悪いは存在しないのです。

緊急事態の際にいちばん先に働くのは、自動思考

今でこそ私は母と心理的な距離を置く方法を知ることができしたが、未だに嫌悪感を感じる場面も出てきます。

嫌悪感は私の自動思考ですから、いいも悪いもなく「あー、嫌悪感がでてきた」と無感情に受け止めて、自分でどう対処するか?ということに専念します。

また「誰かの助けにならねば、私には生きている価値がない」と培われてしまった感情も、私の自動思考として存在しています。

若いころはこういった緊急事態には母に限らず、誰彼構わず好きも嫌いもなく自動的にスイッチが入るようになっていました。

それゆえさまざまな人の緊急事態に動いた結果、その人たちは一時的に救われましたが、私はひどく消耗していました。

「ねばならぬ」という自分で植え付ける強迫観念

若気の至りとはいえ自分を消耗させるほどの人助けは、はっきり言って人助けなどではありません。

若いころの経験を踏まえて、私は自分の持つ「人を助けなければ」という自動思考に「自分が助けたければ」という項目を付け加えました。

「人を助けなければ」ねばならぬという言葉には強制力があるので、強迫観念が伴います。

(人として)正しいことをせねばならぬ、親として、子として……すべて「ねばならぬ」ということがベースになると自分の意思は排除され、社会通念や倫理に当てはめている行為になります。

けれども「親とのわだかまりがある」という感情は誰にでもあるものではなく、わだかまりの量も人それぞれなので、社会通念や倫理に当てはめることができません。

そうして強迫観念とセットになっているのは「させられている」という被害者意識です。

被害者意識は自分も他人も、ひどく消耗させてしまいます。

助けているつもりが、自他共に消耗させているだけという誰の助けにもならない行為です。

けれども「自分が助けたければ助ける」ということになると、すべて自分の意思の元で動くことになります。

誰から強制されたわけでもなく、自分の好きで動けることしか自動思考というものは働かないのです。

ですから若いころは「自分の生きている価値を作るために、誰かを助けたかった」という残念な考えでしたが、自分の生きている価値を誰かに決めてもらうことこそ本末転倒だったのです。

緊急事態に対応できるか?できないか?ではなく自分が対応したいか?したくないか?をまず考えてみる

「できる、できない」で考えると「(対応しなければならないのに)できなかったらどうしよう」という強迫観念で、動けなくなってしまいます。

けれども「したい、したくない」で考える習慣をつけておくと「できる」方法を考え始めますし、したくない場合も「したくない場合、どうしたらいい?」という自分主体の行動を考え始めます。

・緊急事態の際の連絡先を、誰か親の親しい人へ頼んでおく

・何か起こった際は、少しの不調でも他者へ頼らず救急車をすぐ要請するよう伝えておく

・1日1回町内会の人へ声をかけてもらうよう、お願いをしておく

などなど自分が関わらなくてもできる対策を、いくつでも考えることができます。

目的は「親の緊急事態の対応する」ということなので、対応するのは自分でなくても親が救われればいいのです。

私もわだかまりがすべて消えたわけではありません

親子の確執はそんなに簡単に消え去るものでもなければ、無理して消さなくてもいいと思うのです。

私自身「なぜそのような状況下に自分が置かれたのか?」ということがわかっただけで、感じた痛みは今でも残っています。

ただ結論としてわだかまりのある、なしをベースに緊急事態の対応を考えても答えは出るものではないということ。

「助けたいか、助けたくないか」を基準にするといかなる手段も無感情のまま自動思考として、感情を交えず行動することができます。


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