「やる」「やらない」を他者に決めさせようとしても

不安に駆られると、小さなことでも新しいことを始めるのは怖くなります。

そんなときについ他者へ「これやったほうがいい?やめたほうがいい?」と聞いてしまいます。

こういう質問が出ているときに、お答えする場合の私の返答です。

「背中を押して欲しい?それとも(やっても)大丈夫だと太鼓判を押して欲しい?」

本来は答えを自分で持っているはずでも

誰もが本当にそのことをやりたいか?やりたくないか?という答えを持っています。

またそれをやっては明らかに大変なことになるという、予測がつくことであれば「やめたほうがいい」と答える場合もあるでしょう。

たとえばやりたいことをするために元手もないのに、大借金をするとかだと「やめたほうがいい」と言います。

すごく疲れているのに「まだ頑張ったほうがいいですか?」というような判断を尋ねられたら「やめたほうがいい」とも言います。

そんな大きなことではなくて、たとえば「新しい習い事を始めようと思うのだけど」という、こちらからすると「どっちでもいいのでは?」と思えるようなことです。

これは「私は今不安でしかたがない、誰か助けて」というSOSです

極度に孤独感や喪失感を感じると、人は不安という呪いにかかります。

自信を喪失しているときです。

すると始めてイヤだったらすぐにやめればいいという判断でさえ、自分でしたがらなくなります。

これは「寂しくて怖くてしかたがない、誰か助けて」というSOSを出している状態です。

けれども本人はあくまでも「新しい習い事を始めていいのだろうか?」ということにフォーカスをずらして考えているのです。

だから孤独感や喪失感の解消を働きかけることに、目を向けていない場合がほとんどでしょう。

往往にしてずれた質問をしてくる人には、なにかしらの大きな不安感が伴っているということです。

そこで自分がSOSを出していることに気がついてもらうことが、最優先となります。

やったほうがいいか、やらないほうがいいかという問題ではないのです

ここで「始めたらいいのでは?やめたほうがいいのでは?」という答えは、ずれた質問にずれた答えを与えることになります。

不安感を軽くしなければ、どこまでもずれた行動で解消して疲弊してしまう一方です。

ですから「背中を押して欲しい?それとも太鼓判を押して欲しい?」という質問は、その人の不安に目を向けさせる足がかりとなります。

本当はやりたくないということであれば、背中を押されるのは怖いことです。

だから「いえ、やめておく」という思考が働き始めます。

また実は怖くて行動に移せないことであれば「太鼓判を押して!」と心の本当の欲求を呼び起こすことでしょう。

自分で決めることが、成功体験のひとつとなります

そこで多くの人は「背中を押してもらいたかったのだ、(自分へ)無理強いしたくなかったのだ」とか「自分は自信がなかったのだ」ということに目を向けるようになります。

そうして足がかりを使い自分で結論を出すことで「自分で決めることができた」という成功体験を生み出します。

そういったことを少しずつ繰り返すことで不安感は徐々に消え失せて、喪失した自信を取り戻すことができるのです。

もともと喪失できるほどの、大きな自信があった

ここでもうひとつ考えていただきたいのは、自信を喪失した人ほど自信があったということです。

もともと自分に自信がない人は、自信を喪失しないはずです。

財産を持っていない人は「泥棒に入られても、ウチには持って行くものはないよ〜」と言いますよね。

つまり能力が高い人ゆえの、悩みなのだということが考えられるのです。

喪失できるほどの自信を構築できるほど、高い能力や実績を持っているはずなのです。

だから再びそこへ目を向ければ、そこへ戻ることも可能だということがわかってもらえるでしょうか?


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