母から見た私

昨日の投稿では「楽に生きていく」うえで幼いころの性格の傾向を知っておく大切さを、お伝えすると同時に実際に私の叔母から見た私の印象を語ってもらいました。

昨日の投稿はこちらから。

本日は母から見た私の幼いころの印象です。

「セリは物覚えがよくて、なんでもわかっていた子だった」というのが母からの第一声でした。

九州の祖母の家に帰省していたときに「帰りになにかいいもの買ってきてあげる」と私に告げて、祖母は外出したそうです。

農家だった祖母は私を玄関の外にあるリアカーへ座らせて、用事を済ませに行ってしまいました。

母は私がそのうち諦めて「家の中へ入れてくれ」と言ってくるだろうと思ったそうですが、リアカーから降ろしてほしいとは言わなかったそうです。

かなり長い時間「オバアタン、ナタナタタエッテトナイネ…….(おばあちゃん、なかなか帰ってこないね)」と祖母を責めるというより、申し訳なさそうに帰ってくるまでずっとリアカーの上で待っていたそうです。

まだ言葉が不明瞭なので、2歳になるちょっと前のことだと母は言います。

どんなことにも意思表示がハッキリとしていてわかりやすい子なのだけど、なぜかいつも少し申し訳なさそうに表現していたようです。

音をキャッチする感覚が、鋭敏だった

リアカーで待っていた同時期に九州人だった祖母が「なしな?(どうして?)」と聞くと私は「ナショナル?」と一緒に首を傾げていたそうです。

普段は東京に住んでいたので、九州弁は親戚と会うときにしか耳にしません。

ですから言葉を知らないなりに音を拾い集めて、自分の知っている言葉と一致させようとしていたようだと母は言います。

また高校生のころ声楽を習っていた時期があります。

複雑なメロディーになるとなんど楽譜を見ても、歌えない節がでてきます。

ところが誰かが歌ってくれれば、一発で歌えるようになります。

今はもうできませんが曲も1回聴くだけで、フルコーラスのメロディーを口ずさむことができていました。

聞いたとたんにハミングで歌い出すので「もう覚えちゃったの?」周囲からは驚かれていました。

こだわりや探究心が強かった

いつまでそうだったのかは覚えていませんが、昔はコンニャクが包装されずに水槽に浮いた状態で八百屋さんに売られていました。

3、4歳のころ母と連れ立って買い物へ行ったとき、私が水槽の中をじっと眺めていたので母は買い物を進めていました。

八百屋の中がザワつきだしたので母がそちらの方へ目をやると、私はコンニャクの水槽にプカプカと浮かんでいたそうです。

私はコンニャクに夢中になるあまり水槽に落ちて、真冬の寒風のなか急いで帰ったそうです。

このように何かに没頭し始めると、他のことが見えなくなるのは今でも同じです。

なんでもよく聞き分けていて、納得したことには素直で明るかった

母から言わせると「(幼少期の私が)なにかをやらかしても、総じてゲラゲラと笑い話になることばかりだったわ。逆に親子して頭を抱えて悩むようなことは一切なかった」と言ったのが意外でした。

最後のエピソードとして私の入園式の話がでました。

妹がまだ乳飲み子で入園式の数時間、上京していた祖父に妹の世話をしてもらう予定でいたそうです。

しかしながら祖父はさすがに妹の授乳や、オシメを代えることに難色を示したようです。

そうして祖父が私の入園式に出て、母は家で妹と残ることになったそう。

「皆んなお母さんに連れらて入園式に出るのに、泣いて嫌がるのではないか?」と懸念したそうですが、どうしようもありません。

私に事情を説明すると「わかった!」と泣くこともなく、祖父に連れられ行って帰ってきました。

誰もがお母さん方に連れられて帰ってくる中に紛れて、祖父は照れくさそうに私と手をつなぎ、私はニコニコ楽しげに帰ってきたので母はホッとしたそうです。

入園式のことをまったく覚えていませんし聞くのも初めてですが、その1年後に祖父は他界しました。

「セリは納得したことにはとても素直で協力的で、子供だましが効かない子だった」と言います。

私的にはなにもしていないと思っていた祖父に、思わぬ冥土の土産を渡していたことがわかり嬉しかったです。

「な〜んだ!私おじいちゃん孝行だったね!」と言うと母は「そうなのよ」と大きくうなずきました。

この後母との2年のブランクを経て、母から想いが溢れだしたのです。

今日も長くなってしまったので、また明日に書きます。


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