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「いつ来ても片付いているし、すぐに美味しいものが出てくるね」30代が終わるまではそう言われていた。
そうして努力をする自分は、偉いとも思っていた。

元来、私はだらしのない性格だ。

「だらしがない」「根性がない」と言われながら、コンプレックスを抱えて育った。
いつしか神経質なまでに「完璧」を装う見栄っ張りになっていた。

「私はセリの家に行って、一度も散らかっているって思ったことはないよ」とどれだけ他者から言われても、自分の家より綺麗に掃除されている人の家へ行くと「ここの掃除はどうしているの?」など、必ず聞いて帰ってきた。

「まだまだ、自分はだらしがない。もっとちゃんとしなければ」
そんな強迫観念で毎日部屋を片付けて、手の込んだ料理を何品も作っていた。

「だらしがない」と言われたおかげで、家事はとても上手な人間に育った。
そうして「根性」もあるていど身につけた。

けれどもいろいろなことがうまく行かない。
というより自分の人生が楽しくないという、現実しかなかった。

誰かのためになにかをすることが、自分の喜びだと勘違いをしていた。

いつも誰かから批判されているような気になり、リラックスができない。
「いい奥さんね」とどれだけ褒められても嬉しくもない。

それは完璧を装う自分を、自分で認めていなかったから。
だらしのない自分がいなくなってはいないことを、許していなかった。

それまで一週間以上の長期留守をする場合は「引越でもしするのか?」と言われるほど家中を磨き上げて出てきていた。
「部屋が片付いていると、帰ってきて気持ちがいいね」と誰からも言ってもらうためだけに。

だから出かける前は、普段の何倍も忙しい。
そうして誰も手伝ってくれないと、キリキリする。

一緒にいる者はたまらない。息苦しい。

家事だけではない。一事が万事その調子で、どんどん自分の中に不満と疲れだけを溜め込んでいた。
 
パニック障害を患って、否応がなしにすべてが放ったらかしになった。
部屋を磨く気力もなければ、料理だってどうでもいい。

家事ができなくなって初めて私はずっと自分のためではなく、誰かに見せるために家事を完璧にしていたことがわかった。

「私はだらしのない性格で生まれてきたんだよ。だからすべてをキチンとしようとするのはストレスなんだよ」
少しずつそう思うようになったのは、やろうとしてもできなくなってからだ。

仕方なく散らかった部屋に人を招き入れても、誰も私をとがめなかった。
お料理を作らなくても買ってきてくれたり、出前を一緒に美味しく食べた。

私にしかできないと思っていたことは、誰もやらなくてもいいことなのだとわかった。

だらしのない子供のころの私に戻っても、誰も私から離れては行かなかった。
むしろ元気になることを、喜んでくれていた。

ちょっとでも気を抜いたら、元に戻れないほど堕落するのではないかと勝手に信じていた。
けれどもハイレベルになるまで、長年トレーニングを積んでいたものはそこまで堕落しない。

家事をしなくなった時間で勉強をして、本を読み、自分の書きたい文章を書く。
料理も自分の食べたいものを作る。
気になった場所を掃除をする。

誰に見せるためでもない、自分を喜ばせるために小さなことを積み上げた。

初めて自分だけを喜ばせる楽しみを味わった。

それだけでよかったのね。そんなことさえ40歳過ぎるまで知らなかったよ。
まだそうなってからの芸歴の方が短いけれど、こっちの方が心地がいいよ。

そうしてノビノビしている自分の方が、気の抜けなかったガチガチの自分よりずっと好きだ。

完璧主義の部分も残っている。
すべてにこだわらなくはなったけど、自分のこだわりたい部分にはさらにこだわるようになった。

それは自分のやりたいことなのだから、こだわっただけの成果として現れる。

自分の生まれ持った性格を、変えることはできない。
でもコントロールならできる。

コントロールできるようになるためには、まず自分の本質を認めて許してあげるしかない。
それこそが本当の「私にしかできないことなのだ」と遅まきながら知る。


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