楽しみながら覚えたものごとは一生ものになる
お宅へお邪魔すると、とても美味しいコーヒーを点てて(たてて)くれる友人男性がいる。(コーヒーは「淹れる」ではなく茶道と同様「点てる」なのだとコーヒーの専門家から聞いたので「点てる」という言葉をあえてカッコよく使わせていただく)
奥さんも「ダンナのコーヒーを飲んだら、よそでは飲めなくなる」と言っている。
私が最初にそのコーヒーを飲んだのは、もう20年も前のこと。それまで紅茶党だったのが、すっかりコーヒー党になった。
「いつからコーヒー点てるようになったの?」と聞くと「子供のころから」と答えた。
まだコーヒーが飲めない年齢から、家庭のなかでの「コーヒー係」は自分だったという。
「親がコーヒーを点てる姿を見ていて、楽しそうだから『やってみたいと!』とせがんで点てさせてもらった。こういうことを嫌いにならないように教えてくれた親に感謝ですね」と照れ笑いをしていた。
また別の日、小学校1年生の男児を親の急用で、少しの時間預かる機会があった。
麦茶をコップに自分で注ぎたいというので、容器を渡すとコップからあふれそうになるギリギリの位置で止めた。
そうして満面の笑顔で「ひょうめんちょうりょく〜」とコップに指をさした。
私に「表面張力」という言葉を、教えてくれたかったようだ。
「すごいね。1年生でそんな言葉を知っているの?誰が教えてくれたの?」と聞くと「おかあさん!」と胸を張って答えた。
きっとお母さんは「ひょうめんちょうりょく〜」という音の楽しさと、その言葉の意味を楽しみながら教えたのだろうと子供の笑顔を見ながら想像した。
そうやって楽しんで覚えた習慣は大人になっても、愛着として残る。
苦しみとともに覚えたものごとは連鎖をする
一方で「スパルタ」を教育だと勘違いしている大人も多い。
ボーイスカウトのキャンプで指導者から「ロープ結び」のやり方がなっていないと、できるまで食事もさせてもらえず深夜まで特訓を受けた。
だからもうボーイスカウトへは行きたくないという男児がいた。
恐らくその指導者は、もともとロープ結びをそのように誰かから習ったのだろう。
最初に教えてもらった方法で、人は他者へ伝授しがちだ。
外で過ごすうえで、ロープ結びは知識として大切なことはわかる。
けれども空腹や指導者のスパルタの恐怖に耐えてまで習得しなければ、生きていけないものではない。
水を怖がっている子に怖くないことを教えられるのは、水遊びの楽しさを知っている人たちだけ。
プールや海に無理やり飛び込まされたら、水は一生怖いものになってしまう。
水に浮かぶ気持ち良さ、絶対に離さないからと安心をさせて一緒に楽しんであげればいい。
「守ってもらえる安心感」を得ることで、水に抵抗感がなくなり楽しみ始める。
食事中に「残してはいけない」ということを主眼に置いてしまえば、どんなに体にいいものを出されても子供の記憶に残るのは「残さなかった」ということだけ。
食事は「残してはならない苦行」にしかならない。
それよりも食事中は1日のできごとの会話などをしながら、楽しんで食べる。
残さない教育より、食事が楽しいものになる方が先だ。
しつけやマナーはその後で抵抗なく学ぶことができる。
「生きることは楽しいこと」だと教えられる最初の存在、それは親
最初に出会う指導者というのは、その後の人生を左右させるほど大切だ。
習いごと、学校の先生、職場の上司、そうして人生でいちばん最初に出会う指導者は親だ。
その人たちが教えるものごとの「楽しみ方」をつかませてあげるだけで、人間はどんどん興味を深める。
楽しみ方さえつかむことができれば、多少の難しいことでも自力で困難をクリアする力を発揮できる。
それを教えることができるのは、指導者自らが楽しみながら深めていった知識や経験だけ。
スパルタで苦しみながら覚えたことは、教えるときも苦しみとともに味わわせてしまう。
これは子供に限ったことではなく、大人が新しいものごとに取り組むときにも同じことがいえる。
とてもいいことを教えてくれても、指導者が指導している内容に愛着が持てていなければお説教を聞ききに行くこととなる。
立派なことを教えることより、まずは自分が心から楽しんでいることを見せることがいちばんの「生きた教育」なのだと思う。
最初の指導者である身近な親が人生を楽しんでいなければ、その子の人生も楽しいものではなくなり「苦行」でしかなくなる。
次の世代にも「苦行」を伝承して、生きることを楽しめない子孫が繁栄する。
人生が楽しいということを親から教えられて育った者は、多少の困難に遭っても自殺は選ばない。
そもそもの心のベースが「楽しい」でできているから、困難はいずれ去るということを知っている。
苦しまなければ楽しみが得られないと教えられた者の思考は、困難に襲われると「乗り越えられなければ、去ってはくれないもの」になっている。
乗り越えたりしなくてもいつか困難が去って行く可能性は、その人たちの思考の中にはない。
ただあるのは「絶望のみ」ということになってしまう。
ベースが違えば、結論がまったく逆になってしまうのだ。
貧乏だけど明るかった、ご飯はまずかったけど食卓には笑いが絶えなかった、学のない親だったけど冗談を言わせればどこの親より面白い。
そんな明るい家に育った子は、コンプレックスが低く心が強い。
自分が楽しむ、人へ楽しみ方を伝える。そんな簡単なことで、悲しい死を選ぶ人が1人でもいなくなる世の中になってほしい。
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