旅行は気分転換として、とても有効な手段だ。
気分転換だけではなく、非日常のなかで違う世界が見える。
国内だってまったく違う方言、食べ物、県民性で驚くことがこの年になっても多い。
海外へ行くともっと大きな違いに驚くこともあれば、案外日本と変わらない部分もある。
日本では人前で鼻をかむことは失礼な分類に入るから、テッシュを鼻に当てる程度で済ませたりする。
海外では逆にグズグズと鼻をすすっていると「鼻をかみなさい」と怒られるし、
レストランでも食事中、堂々と美しい女性が「ブーン!」と爆音を立てながら鼻をかむ。
そんなことも自然な形で受け入れることができると、
誰が常識的でそうでないのかという基準が、絶対的なものではなくなる。
自分が親や周囲の人間の型にはめられて、身動きが取りづらくなっている部分も発見できる。
日本では生きづらい思いで幼少期を過ごしていた私が、
海外へ出て暮らすようになり「自己主張」というものが、いいことだと知った。
日本ではこれは「わがまま」とか「我が強い」と叩かれがちだ。
けれどもそこでは逆に自己主張をせずに相手のいいなりになっている人の方が、
相手にしてもらえない場所だった。
自己主張のない日本のお利口さんな大人たちは、
現地の人間から完全になめられて、食い物にされるだけだった。
私は自分の性格がおかしいのではなくて、合わない環境にいたことがわかった。
偶然とはいえ、早い時期に一時期だけでも合う環境に、身を置くことができたことは幸いだ。
だから自分が親になって、もし我が子が何かに悩み、つまづいたときは、
子供と一緒に全財産を投げ打ってでも日本中を、世界中を巡ろうと思っていた。
その子が安心して暮らせそうな場所を一緒に探してあげて、幸せに暮らすことは可能なのだ。
狭い社会で無理して適応させなくていいのだ。
毎日学校へ行きストレスだらけの時間を過ごすことで、
人を恨み、自分に自信を持てず、自分や社会を嫌いになることの方が悲しいことだ。
自分が動くことで、心が自由になれることを体で覚える。
そういうことを伝えられる親になることが、
私が子供に与えてあげられる最大の財産だと思っていた。
子供に恵まれなかったのでその機会はなかったし、そのことを他人に話すと、
「そんなのダメだ、弱い子になってしまう。我慢を伝えることは大切だ!」
と反論を受けたこともある。
別に私の持論が正しいなどとは思っていない。
その意見がごもっともな部分もある。
けれども「そこにいなければならない」という縛りは、
「そこにいれない自分はもうダメだ」に変わるかもしれない。
そこにいさえしなければ、発揮できたかもしれない可能性の芽を、
摘んでしまうことだって考えられる。
場所を変わったって、そこに適応できるのは一時期かもしれない。
そうしたらまた違う場所を、相手を、探せばいい。
動き続けている限り、必ずなにかを得ている。
何歳からでも遅くない。場所はどこでもいい。
人のために頑張ったって限りがあるけれども、自分を楽にするためなら頑張れる。
お金がないならないで稼ごうとするし、倹約をすることだって苦ではなくなる。
悩みが深いのに頑張れないのは、狭い選択肢のなかで安易に解決を見出そうとするから。
最小限の動きで、他人まかせに済ませようとするから。
自分から動くことで、全てが始まる。
時間だってお金だって労力だって掛かるけど、
狭い選択肢しか知らずに死ぬより、どれだけ豊かなことだろう。
動くことのできる精神性と体力に感謝をして探し続ければ、きっと答えは見つかる。
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