信頼できる人との対話
「信頼関係」それはどこまでお互いに、本音を話すことができるかに掛かっています。
嬉しかったこと、自分の変な癖、誰かの批判も含めて「どう思われるのだろう?」という考えを排除した思いを伝えることができれば、信頼できる相手だと言えると私は考えます。
意見の食い違いがあっても、食い違いをお互い受け止めて考えながら話す力が双方に備わっている。
「それはあなたの考えであって、私はそうは思わない」ということも、ハッキリと伝えることができる。
信頼関係がなければどちらかが合わせるか、合わさせるかで終わってしまいます。
本音で話すお互いの考えが食い違ったときどう対応しあえるかが、信頼しあえているかの一番わかりやすい目安だと考えています。
当然口論や、喧嘩になることもあります
本音を話しているわけですからお互いに傷ついたり、傷つけられたりもします。
けれどもどちらも、自分が一方的に間違ってはいないなどと考えてはいません。
自分の主張の正当性を、証明しようとも考えません。
ただ自分が間違っていたことに、後々気がつけば「あのときの対応は、間違っていたね」ということも認め合い、指摘に感謝することができます。
性別や年齢の上下など関係なくどこまでも対等で、人間対人間の対話ができる相手が信頼関係のある相手です。
職種、立場、お金のあるなしも介在しません。
意見の対立が起こることを恐れず時間がかかっても、あくまで一対一で解決する方向へ持って行こうとお互いに考える力を持つ関係性です。
本当に伝えたいことがタブーならば、そのお付き合いはやがて終わってしまう
「本音を言ってしまえば、壊れてしまう」そんな間柄にはどれだけ付き合いの年月が長くとも、そもそも信頼関係は構築されていません。
もちろん相手の性格や、立場を考えて「そこまで伝える必要のないこと」と腹に落とせたのなら、それは愛情がベースになっています。
けれどもその人との間柄を壊したくない、ことを荒立てたくないためだけに引っ込めるのなら、それは相手にとって自分は価値の低い人間だと自分で自分をおとしめていることになります。
自分も相手も信頼することができない人が「本音を言えば壊れてしまう」と要らぬ格好を付けて言うのです。
そんな関係性はやがて別れが訪れます。
これは親子、夫婦、他人すべての間柄に言えることです。
そういう相手がいても「お互い信頼に足る発言をして(させて)こなかった」ということを考えると、フィフティー・フィフティーです。
自分にも反省点は残りますし、すべて自分が悪かったわけでもないとも考えます。
けれども駆け引きもなく利害関係もなく、純粋に本音で話ができる相手がいなければ、どこで自分を客観視するのでしょう?
自分のことは、自分でなかなか見えないのです。
10人の本音を言い合えない関係性を構築するより、1人との信頼関係を大切にし合う。
1人と構築できたら、その他にも構築しあえる相手が必ず出てくる。
他者との信頼関係は、実はどこまで自分を信頼しているか?ということの裏返しなのです。
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