失敗がいっぱいな自分を、恥ずかしいとは思わない
声を大にして言えることではありませんが、私の失敗した数は同年代の人の比ではないほど多いと思います。
自分のことに限っては「無駄なことなどなにもない」などの綺麗ごととして、昇華はできませぬ。
器用な部分と不器用な部分のギャップが、あまりにも激しい性格なのはわかっています。
不器用なことと対峙するとなると、本当に「いったい何歳なの?」と自分でも呆れるほど幼稚です。
そうして見事に失敗という結果が出て「あー、やっちゃった」となることがてんこ盛り。
「もうあんな無謀なチャレンジできないよ」と振り返ると思うことだってあります。(遠い目)
もしタイムマシンがあるのなら「おいおい、それ痛い目に遭うからやめておきなさい!」と現在の私から、アドバイスに行きたいくらいです。笑
でもひとつだけ自慢できるとしたらチャレンジした数だけは、多いということなのです。
だってどんなチャレンジも、成功する確率は50%しかないではないですか。
ここ数ヶ月チャレンジを避けて、守りに入っている自分に気がつきました
どうして前は無謀にも、こんなにチャレンジをしまくってきたのかな?
もちろん「それは自分を、信頼しているからでしょう」というどなたかからの、優しいご指摘があったとしてもです。
結局掘り下げると「飽きていたのでは?」という持論が出てきたのです。
自分の取り巻く環境に飽きて変化を起こしたいとき、いつも新たなチャレンジしてきたのではないかと。
今はまだ今のステージに飽きてはいないので、チャレンジの必要がないのです。
だから守りに入っていたのでは、なかったのだなと思います。
チャレンジすることの、たったひとつのメリット
たくさんチャレンジをしてきたおかげで、自分の人生って面白いです。
ぜんぜん飽きることがないし、今後もなにをやらかすのだろう?と自分のことながら、思うのです。
思い切り生きなくても飽きずに、面白く人生が続くのならそれがいい。
たとえ年甲斐がないと言われても、能天気だと言われても、私が楽しんでいると周りも楽しむのは事実。
極論ですが私は楽しく過ごすために、生まれてきたのです。
あとは全部、枝葉で起きたできごと。
そうして「苦しみから抜ける人生」を目指す人より、楽しく過ごしたいと願うチャレンジャーを応援したい。
いつもお日様の方向を向いている、小さな花のように。

この花なんていうの?
投稿がお気に召しましたら、ポチッとクリックをお願いします!
↓いつも応援ありがとうございます。- 投稿タグ
- チャレンジ, フィフティーVS フィフティー, 失敗