強(したた)かに生きるいうことは、いったいどういうことなのでしょうか?

依存されやすい人には「強かさが足りない」と言われます。

そんなこともあり、最近強かさについてよく考えます。

強かさってなんだか、卑しいイメージがありませんか?

私が「あの人は強かだよね」という言葉を使う際、決していい意味合いでは使いません。

けれども強かと書くからには「強い」人なわけです。

ということで調べてみました。

したた‐か【▽強か/▽健か】

[形動][文][ナリ]
1 粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないさま。しぶといさま。「世の中を―に生きる」「―な相手」
2 強く、しっかりしているさま。「―な後見役」「―な造りの家」
3 強く勇猛であるさま。
「力が強く勇気があって―な豪傑である」〈魯庵・社会百面相〉
4 程度がはなはだしいさま。
「いと―なるみづからの祝言どもかな」〈源・初音〉
5 分量がたいへん多いさま。
「国の事など―に申し居たるさま見るに」

デジタル大辞泉より

しぶとかったり勇猛の意味合いを持つほめ言葉や、卑しさとしても活用できるということですね。

共依存関係の強かさの足りなさは、卑しさとは違う

共依存関係で依存をされた子供は、親の悪い強かな面をたくさん見てきています。

そこで自分が強かになることを諦めたり、嫌悪したりしてしまいます。

けれども別の言葉に変えると、依存的な親の持つ強かさは「卑しさ」だったり「こざかしさ」です。

卑しさは短期的に見ると、得をしたように思える

たとえば3つしかない美味しいものを、2人で食べることがあったとします。

2人とも好きなものだった場合、通常は1つ半ずつに分ければ問題がない。

けれども依存的な親は、なんのためらいもなく2つ取っていきます。

あるいは自分が食べたいだけ食べて、残りを子供へ分け与えるなどの方法を取ります。

これは依存的な親の、自分が損をすることを極端に嫌う幼児性からきています。

そうして好き勝手をすることで、得をした気分になり自分を一時的に満足させるのです。

依存される子の側は食べ物だけにとどまらず、一事が万事このような環境で育つわけです。

親と子の目的が違う

上記の例を見て想像してみてください。

親と子での目的意識が、まったく違います。

損をしたくない親と、親を1人の人間として見るゆえ、均衡を求めている子供です。

子供時代は親の不均衡にも従うのに疑問を抱きませんが、成長すれば卑しさと無様な嫌悪感を感じ始めます。

おそらく誰もが小学校高学年くらいから中学生くらいまでに、少なからず違和感を覚えてきたことでしょう。

目的が違えば、受け取る感情もまったく別物

この場合親は「損をしたくない」人なので、均等に分ける時点で損をしていると捉えます。

つまり幼児性の強い親にとって子供と均等に分け合うことは、すなわち「損をする」ことになるわけです。

結果子供は親へ損をさせないため、不均衡を被ることになります。

親は短期的に得をしたような気になっていますが、不均衡を被った子供は常に「不足感」というものに喘(あえ)ぐのです。

一旦得をしたような気になっても長期的に見ると、不足感に喘ぐ子供から軽蔑されて損をすることになります。

つまり両者が損をしているという事実が残ります。

強かになるということは

いい意味での強かさが発揮されると、どちらも損をしないはずです。

けれども依存的な親は実質的な「損ではない損」でさえ損失と捉えます。

親と子供の心の境界が守れないのも、子供と分離することを「健全」ではなく「損失」と捉えるからです。

依存された側は自分が強かになると、奪われる(不足感)という誤った公式が脳にインプットされていると思うのです。

それが「強かさが足りない」と言われるゆえんだと感じます。

けれどもここで書いたことを読んでいただいて、わかるかと思います。

自分が不均衡を被ることでは、誰も得をしないということが。

だとすると不均衡を被らない自分を構築した方が、双方を楽にするということです。


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