「自分は〜を信じる」とよく耳にします
子供を信じる、配偶者を信頼する。
私は若いころから自分へ向けて「あなたを信じる」という言葉に、違和感を抱いていました。
大人から「あなたが(受験校)に合格することを、信じている」とか「君は非行に走るような子ではないと信じている」などと言われると、プレッシャーをかけられているような気がしていたのです。
信じたから守られる約束ではない
誰かや何かを信じれば守ってもらえるという考えは、結局自分が裏切られないための伏線を張っているのではないか?
またあえて他者へ「信じている」という言葉を使うということは「信じさせろ」「裏切るな」という誘導なのではないか?
そんな風に思えるのです。
信じることが悪いとは思っていない
とはいえ、信じることそのものが悪いと思っているわけではないのです。
ただ自分なりに信じていいのは、目に見えない力だと思っています。
エネルギーやパワー、ご縁、神様、想い、神話、知恵などの数値化ができない、あるいはしにくいものです。
特定の人へ対して信じるという言葉を発するときは、自分は動かずして自分の期待する結果へ導こうとすること。
相手の気持ちを操作、コントロールをしようとしている時点で依存だと感じます。
コントロールから身を守るために
依存的な親の子へのコントロールも「信頼」という道徳的な言葉へすり替えられてしまうことがあります。
親と子の利害が一致していないことへまで「信頼」という言葉を使って、心を操作されるわけです。
ここで強調しておきたいのは「信頼」という言葉を向けられた側が、がんじがらめに縛られないということです。
「信頼に応えよう」とすることは、ベースに同じ利害関係と目的がある相手としか呼応できないのです。
ですから一方的に「期待に応えさせよう」と誘導する人とは、無理が生じます。
もし「信じる」という言葉を使うのなら
さきほど「見えない力」を信じると書きましたが、もし特定の人へ「信じる」という言葉を使う場合は、結果にフォーカスをしないようにしています。
例えばメールの返信を、マメにくれない人がいるとします。
そうして「あの人はなかなかメールに返信をくれないから、返事をするように強調して書いたほうがいいよ」と誰かから言われたとします。
そのときに「私はあの人を信じる」と使うことがあります。
それは信じるのは相手ではなく結局は自分で、それが自分の審美眼や判断力への自信へと直結していると思うから。
「相手から返信がすぐきても、遅くなっても、自分は大丈夫」という自分を信じているのです。
相手の言動ひとつで、自分の心が天と地ほどに変わるくらいなら
とどのつまり「どっちでもいい」場合に自分は「信じる」という言葉を使います。
それは結論がどうあっても、相手への自分の気持ちは変わらないということです。
もし返信がこないことで自分の状況が変わってしまうくらいなら、違う伝達手段を使うでしょう。
メールでしか伝達方法がない場合なら、委ねるしかありません。
その代わりにこなかった場合の、対策まで考えておきます。
私が若いころに言われた「合格することを信じている」という場合も同じです。
合格をしなかった場合でもその子にとっての、最善策を選択をできるよう合否が出るまで調べておくでしょう。
また非行に走らせたくなければ、非行に走りそうな理由を考えて排除する方法を考えるでしょう。
万が一非行に走って本人が困れば、そこから抜け出せる最善策を考えたことでしょう。
信じるだけで、回避をすることはできない
信じたって期待に応えない人は応えないし、信じていなくても応えてくれる人は応える。
個々の考え方や必要性、モラルの問題です。
これまでの経験から、そこへ介入はできないと思うのです。
けれども相手を信じていないとか、はなから疑ってかかるという意味でもありません。
ただ信じたのは自分の勝手、信じられたのも相手の勝手だということを忘れてしまうと、人の心をコントロールして自由を奪ってしまう。
またコントロールできなかったときに相手から出る怒りや落胆が、自分自身の被害者意識として変わることがイヤなだけなのです。
すると誰かの言動ひとつで、相手に自分の感情を乗っ取られるということも、かなり回避できます。
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