アパートに住み始めて3ヶ月ほどが経ち、
インターナショナル・スクールの席が空いた。
私たち家族は、一軒家へ引っ越すことになった。
ここは父の新聞社のアフリカ支局も兼ねていて、
仕事部屋にはTELEXという、機械も入っていた。
TELEXは今でいうネットニュースを受信する機械だ。
世界中で起こるニュースを、ロイター通信が24時間体制で配信する。
今はそれがPC画面に表示されるが、当時は紙に印字されていた。
TELEXが自宅に導入されるようになるまで、
父はタンザニアで一番大きくて豪華な Kilimanjaro Hotel というホテルのロビーまで、
数時間おきにニュースを閲覧しに行っていた。
ここは世界のジャーナリストたちが集まり、
会議や宿泊をするホテルだ。
自宅でニュースが随時閲覧ができるようになると、
タンザニアに赴任している外国人ジャーナリストたちが、
家に閲覧しにくるようになった。
入れ替わり、立ち替わり誰かが来る家は賑やかだった。
今度の自宅は約1000坪の敷地に建てられた、一軒家だ。
7LDKの大きな家だった。
ご高齢のナタニエルさんに働いてもらうには、
家が広すぎるという理由でご隠居いただいた。
代わりに若くてハンサムなデイビッドという使用人と、
広い庭の管理をしてもらうため、ローレンスという庭師も増員された。
治安が悪い国なので、夜になればガードマンがくる。
庭にはバナナ、ココナッツ、ライム、パパイヤ、グアバ……etc
野菜も暑いと次から次へと育つ。
日本から運んだ、
三つ葉などの日本から持ってきた香味野菜の種を植えると、
すごい束で収穫ができ、毎日食べられた。
庭で採れた野菜や果物、新鮮な魚。
便利な加工食品などないけれど、素材はとてもよかった。
この素材を使いTELEXを見にくる外国人ジャーナリストを始め、
タンザニアの取材にきているテレビ・クルー、
商用で訪れている日本人など、さまざまな人を招いて、
夜な夜なパーティーが開かれる。
娯楽の乏しいタンザニアではパーティーが、
あちこちで日常的におこなわれていた。
デリバリーも、お惣菜などのできあいのものもないので、
日本人の奥さんたちはパン粉なども手作りしていた。
当時住んでいたタンザニア国内在住の日本人は、
1000世帯弱だと聞いた。
首都ダルエスサラームには
関西の大手電機メーカーのNが工場を持っていたので、
その会社の家族がとても多かった。
日本では普通の生活をしていた妻が、
海外へきたとたん10人〜20人ものパーティーメニューで、
おもてなしをすることとなる。
しかも物資に乏しいので、
酒やソフトドリンク、卵、小麦粉などが店頭にいつもあるわけではない。
どこかで上記のものが売りに出されると、
日本人会の連絡網で情報が回ってくる。
売り切れてしまう前に入手するのが、
夫が働いている日中の、妻たちの大切な役目だった。
いくら使用人を雇っていても、
物資調達からおもてなし料理をこなすのは大変な作業だ。
人前に出ることや派手なことが、苦手な奥さんもたくさんいた。
私の母もご多分にもれす、
私たちが学校へ行っている間に食料調達に奔走し、
夜はパーティー……と、とても忙しくしていた。
だが結婚前はアナウンサーだったので、
人前に出るのは好きな人だ。
来客が外国人の場合、
英語が話せず壁の花になってしまう奥さんも多いなか、
英語が堪能な母にとってその能力をお披露目する場でもあった。
この生活はとにかく母に合っていた。
毎晩たくさんのごちそうを並べ、皆に喜ばれ、
イキイキと来客との談義を楽しんでいた。
父もそんな母を、自慢気に披露していた。
母がイキイキしているおかげで、
子供たちものびのびとしていた。
日本では3人の子供たちの面倒を、
一人で見なければならないことがヒステリーの原因だった。
だがそのときばかりは他の人から賞賛されて、
母の「自分を見て」という自己顕示欲が満たされていた。
そうすると私を捨てようともしないどころか、
「私の子かわいいでしょう?面白い子でしょう?」
となった。
私が生まれてきてから、いちばん優しい母だった。
幸せそうに笑う母が、嬉しかった。
日本にいたころは情緒が安定しない私だったけど、この時期は安定していた。
自信を持って、いろんなことに取り組めた。
美味しいごはんを作ってくれなくてもいい。
美人でなくてもいい。
母にはただただ幸せそうに、
笑っていて欲しかっただけ。
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