「もしもし。私はヨーロッパ人の女子ですが、ミスターMはいますか?」
電話越しにイギリス英語のアクセントで問いかけられる。
自分の名前を言わず「ヨーロッパ人の女子(European girl)」と名乗ることに、違和感を感じた。
「いいえ、いませんよ」
そう答えると
「ありがとう」
きちんと礼を述べて、その電話は切れる。
ミスターMというのは、父のこと。
だから間違い電話ではない。
同じ人から、同じ電話がしょっちゅうかかってくるようになった。
家族に電話がかかると必ず誰から電話があったか?
どんな要件だったか?などを伝えていたけど、
この人からの電話は父にも母にも伝えてはいけない気がした。
父が在宅中にかかってくることもあったけど、
「いません」
と小さな声で答えて電話を切るようにしていた。
母から
「父は臭い、汚い」
と幼稚園のころから聞かされていたことと同様に、
「父はいつも浮気をしている」
ということを兄妹のなかで私にだけ、誰もいない場所で聞かせていた。
小学校低学年のころから聞かされていたその話題は、
最初こそ気持ちが悪く、大好きな父にそんな存在がいることが嫌で
「イヤだー!」と泣いていた。
でも 高学年になるころにはもう慣れっこだった。
「またその話か」
くらいにしか思わなくなり、母から聞くこともすっかり感覚が麻痺していた。
誰にも話すことができない話題だということも、もう理解ができる年齢だった。
だからこの話は私が受け止めてあげなくてはならないと、
無意識に我慢をしていた。
私から父には母が女性関係のことを私に話しているという事実を、なにひとつ伝えていない。
だから電話も取りつがないし、父本人にも電話があったことは伝えない。
満席のインターナショナル・スクールの空きが出るまで、
日本の通信教育を自宅で勉強していたと以前書いたが、
そのときに日本人女性の家庭教師がきていた。
ダルエスサラーム大学へ留学中の20代後半の女性。
腰まで伸びた長い髪、
スラリと背が高く、
歩くと薄手のロングスカートからチラチラと、太ももまで見え隠れする。
青年海外協力隊員のお姉さんたちは、飾り気がなく素朴な人が多かった。
現地在住の若い日本人女性のなかで、その人の存在感は特殊だった。
「日本人会の中では私たちがタンザニアにくるまで、
あの人がパパの奥さんだって思われていたのよ」
彼女が家庭教師を担当するようになると、母から私への曝露話が始まった。
それまでは母から話を聞くだけで、誰かも知らない人の話を聞いていた。
ところが噂の本人を知ることとなると、話が話だけに生々しすぎる。
なぜそんな人を自宅に連れ込み、私たちに勉強を教えさせるのか?
父に怒りを覚えた。
父は彼女に家庭教師のアルバイトをさせて、
小遣い稼ぎをさせていた。
三人の姉妹に囲まれて、一人息子として育った父。
父方の祖父母は跡取りとして、大切に父を育てた。
幼少期は体が弱かったようで、
祖母は父を背負って学校まで連れて行っていたそうだ。
そんな祖母の期待を一身に背負い育ったことと
三姉妹たちに囲まれて育ったことで、
女性への接し方はとても上手だった。
ハンサムではなかったけれど、よその人から言わせれば
ダンディで優しい人間だと評判だった。
子供のころ弱っちかった父は
大学からウェイトリフティングを始めて体を鍛えていた。
強くなりたかったのだろう、カッコイイ男を目指すナルシストだった。
昭和10年代生まれで、女性にモテることを「男の甲斐性」と考える節もあった。
男女関係なく面倒見のいい父で、外面がすばらしくよかった。
ときには家族を犠牲にしてでも「いい人」になりたがった。
日本にいたときに突然怒鳴りあいの喧嘩が始まった。
「出て行け!」
「お前が出て行け!」
近所中に聞こえる大きな声で、怒鳴りあう両親。
父が近所の奥さんを、駅まで車に乗せてあげたというのが喧嘩の原因だった。
猜疑心の強すぎる母。
母の性格を知っておきながら、外にいい顔をやめない父。
困った人や旅人を見かけると、自宅に連れてきては食事をふるまっていた。
いや、母にふるまわせていた。
たとえ母がいやがる相手だったとしても、ふるまわせて世話をさせた。
家庭教師の女性も父にとっては助けるべき存在だったのかもしれない。
この家庭教師と電話のヨーロッパ人女性。
そこへ父が連れてきた一人の男性の登場で
家のなかは再び嵐が吹き荒れる。
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