体が自由に操れて、心に引っ掛かりのないありがたみ
過日に書きました足のうっ血も完全に引き、あと一息というところまで回復しました。
つい走りそうになってしまったり、間違って踏み込まないようにすれば、もうじき完治すると思われます。
体の不安がない時間の方が長いのに、こんなに短期間の不自由さでも回復すると、ありがたみがヒシヒシと湧いてきます。
病院で内科的な原因ではないことを知らされて、突然死する恐怖も感じない。
今はネタであり笑い話ですが突然死の可能性の有無がはっきりしないうちは、慌てこそしませんでしたが、たった一晩でも胸中穏やかではありませんでした。
やはり「治る」という診断がなされてこその、心の安定なのだと感じます。
なぜ歩き始めた子供は、歩いているだけでケタケタ笑っているのだろう?と不思議に思っていました
酔っ払いのようなヨチヨチ歩きでケタケタ笑いながら歩く子供を見かけるたびに、微笑ましく思えると同時に「なにがあんなに楽しいんでしょう?」と思ったことはありませんか?
現在の私は、それがなんだかわかる気がします。
できなかったことが、できるようになった喜びなのではないかと。
まだ赤ちゃんなので「できるかな?できないかな?」などとも考えずして、できたことだからあんなに嬉しそうなのかも?と想像してしまいます。
与えられて取り上げられるということ
一方で健康体で生きていて今までできたことが、ある日突然できなくなったときの恐怖を考えました。
学生時代に事故で失明した人が言っていました。
その人は学者さんでしたので、書物や論文を読まなくてはなりません。
失明して初めて覚えた点字の点を爪でこすって潰さないと、読めなかったそうです。
そうして読めないとイライラして自暴自棄になり、物に当たるなどしていたと聞きました。
「こんなことになるのなら初めから目が見えないほうがよかったと、その当時は運命を呪いました」と言っていました。
普段はユーモアたっぷりに、面白おかしく知識を教えてくれる人です。
また一緒にいるときは気配と声色だけで、人の奥深くにある感情まで察知できるほどの人が、自暴自棄だったことなど想像できません。
歩くとき私の肩につかまってもらうのですが、何年ぶりにお会いしても私の2、3キロの体重の変化を、肩に触れただけで察知します。(太ったときは黙っていてくれます。笑)
透視しているのではないかと思える、その研ぎ澄まされた感覚を持てるようになるまで、どれほどの精神力、時間と鍛錬が必要だったのかは想像すらできません。
失明から現在に至るまでの話を聞いたときは「取り上げられてしまうということは、もともと持っていないより酷なことなのだ」と恐ろしくなりました。
取り上げてしまうくらいなら、あげない方がいい
足の話からずいぶん飛躍してしまいましたが、あって当たり前のものなど1つもないのだと思ったのです。
自分の健康を含む他者への親切心でさえ、与えることができなくなれば取り上げてしまうことと同じ。
それよりも自分の現在持っているものを大切に管理することが、他者へ施すより大切なことなのだと感じます。
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