私は無信仰だし、宗教に詳しいわけでもない。
けれども子供の頃タンザニアのインターナショナル・スクールに通い、
いろんな宗教を信仰する家庭に育つ子供と一緒に、一時期を過ごした。
習慣の違い、食べ物の違い、それぞれに意味があることなのだと、
多感な時期に接することができたことは幸いだ。
一部の過激な宗教を除いては、信仰心を奇異な目で見ることもないし、
その人たちの持つ普遍的な神様がいつも心の支えになっていることは、
無信仰の私には羨ましいことでもある。
輸血が禁じられているエホバの証人はなぜ輸血がダメなのかを、
宗教に詳しい人に聞いたことがある。
それはまだ解明されていない病気がたくさんあるからだ。
例えば肝炎これはウィキってみると、現在で8種類が発見されているが、
まだまだ出てくる可能性がある。
エイズやエボラなどもここ数十年で発見された病気だ。
血液に未知の病気が潜んでいて、輸血しなければ助かったものの、
してしまったばかりに命を落とすことを避けるための昔ながらの戒律だそうだ。
イスラム教徒がアルコールを禁じられているのも、
水の少ない暑く乾燥した砂漠地帯でアルコールを摂取すると、
血中の水分だけがすごい速さで蒸発してしまう。
そうして血中のアルコール濃度が瞬く間に上がり、
急性アルコール中毒となり命を落とさないための先人の知恵なのだ。
マサイ族は鶏を食べない。
二本足で歩く生物なので、人間と似ているからだそうだ。
これも共食いを禁じる食物の少ない場所ならではの、知恵だと思う。
(もちろん国や人によっての信仰度合いがあるので、
お酒を飲むイスラム教徒もいるし、鶏肉が大好きなマサイ族もいる)
人間の「決め事」にはなんかしらの理由が存在する。
宗教に関わらず男尊女卑だって、レディー・ファーストだって、
それを決めなければなにかしらの問題があったから決められた
「ことの起こり」なのだ。
宗教が戒律を必要とするのは信徒間の統率を取る指針でもあるので、
私がとやかく言うべき問題ではない。
けれども慣習の問題点としては、
決まりごとの起源を意識せず続けてしまうことだと思う。
今この時代にその考え方が必要なのか?
そもそもその慣習がなぜ始まったのか?
という部分が古い慣習により忘れ去られ、柔軟性を欠き、争いの元となってしまう。
結婚などその最たるものだ。
私の生まれた家の人間は、なぜか朝食の後に顔を洗う習慣がある。
いつから始まったことなのか、誰が始めたのかさえわからないけれども、
食事をすれば歯も顔も汚すから、食べた後で歯磨きと洗顔をすることにしている。
それに気がついたのは私の夫だった。
彼は朝食を食べる前に必ず歯を磨いて、顔も洗う。
結婚当初、私の実家で違和感を感じたのだ。
「なぜこの家の人たちは、皆んな朝食の前に顔を洗わないのですか?」
と言われるまで、それがおかしなことだと誰も気がついてはいなかった。
「いつもそうだからね」母が一笑に付した。
また私は義父が要件があり電話をかけてくる度に、
「以上!終わり!」
と軍隊みたいな口調で最後を締めくくり、電話を切られることが苦痛だった。
たとえそれが頼み事でも、必ずその言葉で終わる。
頼み事をされているのに、なぜ命令口調になるのか私には理解ができない。
それを夫に伝えると
「親父はいつもそうだから、気にしていなかった」
と相手にしてはもらえなかった。
私の家の人間は依然として朝食前に顔を洗うことはしないし、
義父が「以上!終わり!」と電話で言うのも止めてはいない。
けれども朝食前に顔を洗った方がいいかどうかを問われれば、
当然洗った方がいいに決まっている。
一緒に生活をする人を不快にさせてまで、それを続ける必要があるのか?
「まったく必要がない」と思った。
なので食事の前の洗顔を兼ねた、シャワーを浴びることにした。
こだわる必要があるのかを考えれば、たやすく手放せることなのに。
ただの習慣として必要のないことにこだわり続ける。
「これは◯◯家代々伝わる伝統だ」とか、「うちはこういうもの」
という心のない返答は他者の心を不快にしたり、深く傷つけたりもする。
どうしてもそれをし続けたいのなら、相手が納得するような説明をするか、
それを止めて相手の意見を取り入れるという選択肢もあるのに、
なぜそんな小さなことさえ「自分家流」にこだわり続けるのだろう?
結婚とは異教徒同士の契りのようだと、私にはどうしても思えてしまう。
どの家にも理屈抜きでその家の「決まりごと」が存在する。
もし婚姻相手がまったく違う習慣の元に育った異国の人や、
異なる宗教の人間なら、結婚前に相手の決まりごとへの心づもりもできるだろう。
けれども同じ国籍、言語と慣習の中で育つのに、
これだけ理解しあえず離婚が多いのはなぜだろう?
それは宗教の戒律並みに自分の家の慣習を、
無理やり愛する相手に押し付けているせいではないだろうか?
という考え直しも、ときには必要なのではないだろうか?
古い慣習の「ことの起こりを」互いに考えて、
不必要なものを自分の家庭から取り去る柔軟さがないのなら、
そこに愛情は存在しない。
起こるのは◯◯家VS◯◯家の対立が待っているだけだ。
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