心のすれ違いはちょっとしたことで起こる
彼氏の喜ぶ顔が見たくて、早起きして素敵なお弁当を作る。
見た目も色も、栄養バランスもバッチリだ。
彼の大好物のから揚げもたっぷりと入れた。
ワクワクしながら開けるときになると。
「まいったな。昨日から揚げたくさん食べちゃった。今日はハンバーグがよかったんだよ」
と彼氏は心のなかで思ってしまった。
けれどもそれを言ってしまえば、彼女がガッカリするかもしれない。
あるいは「こんなに頑張って作ったのに!あなたの健康を考えた体にいいものと、好きなものがたくさん入っているのよ‼︎」
などと怒りだされることを想像して、本音を隠して我慢をしながら食べる。
彼女は彼女で精一杯考えて作ったのに、相手がちっとも喜んでくれているように見えない。
なんだかむっつりと食べているようにも見える。
「体調でも悪いのかしら?味つけが濃すぎたかしら?」
などの空想が頭のなかを駆け巡る。
空想と空想の対立が起こるとき
後日なにかの原因で喧嘩になったときに、突然あの日のお弁当の話まで彼女から飛び出す。
「私はいつも一生懸命なのに! あなたはちっとも喜んでくれない」
売り言葉に買い言葉で「俺だって食べたくもないものを、一生懸命食べさせられたよ!」
と、どちらも被害者意識を振りかざすだけの、堂々巡りの喧嘩が勃発してしまう。
しまいには「誰が弁当作ってくれって頼んだよ!」
「誰が食べてくださいってお願いしたのよ!」
子供から「産んでくれって頼んだ覚えはない!」と言われてしまう理屈も、ベースは同じだ。
痴話喧嘩の原因なんて、しょせんはそんな他愛もないことが多い。
それでも何度もそういったことがたびたびくり返されると、互いに疲れてしまい別れが訪れることも。
どちらも思いやっているのになぜ?
彼女は彼氏を喜ばそうとしていた。
彼氏は彼女を傷つけたり、怒らせまいとしていた。
どちらも善意でしかないのに、なぜ被害者意識を振りかざすほどの喧嘩になってしまうのか?
それは善意の奥にあるそれぞれの「意図」の押し付けだ。
彼氏の「今日は食べたくない」という意図。
彼女の「喜んでほしい」という意図。
それぞれが思っている自分の行動の意図を話さずまま、気持ちが伝わるはずがないのに。
伝えないからややこしい感情が起こり始める。
「食べなければがっかりされたり、怒らせてしまうのではないだろうか?」
「体調でも悪いのだろうか?味つけが気に食わないのだろうか?」
これらは意図をきちんと伝えずして、勝手に相手の気持ちを空想している物語だ。
だけれども実際にそんなことは起きていない。
甘んじるということ
仮に「食べたくない」と言った相手が怒ったのなら、甘んじて怒られる。
「喜んでほしい」と言って相手が「嬉しくない」と言っても甘んじる気持ちがあれば、被害者意識が顔をだすことはない。
甘んじられないから自分の考える意図の通り、相手が反応してくれないことを責めてしまう。
自分が言いたいことを伝えて、それを受け入れられなかったのは相手の課題だ。
そう考えると、被害者意識は起こらない。
だからこそ相手の課題と自分の課題を、すり替えないようにしないと喧嘩はいつだって起こる。
そのためには常に意図を明らかにすること。
意図を明らかにした上で、相手からどんな反応がきても、それは相手の意見として甘んじる。
情報提供をするときも同じ
人の役に立つ話をするのも同じこと。
それを聞いた人の役に立つか立たないかの判断は、情報を提供された側であるということ。
情報を提供した側から「役に立つだろう?なのになぜ感謝をしない」と言われることではない。
たとえそれが正論であっても。
どれだけその人のことを考えてあげていても、その人が求めていない情報ならば、不要なものにすぎない。
それが人への善意ならば、相手からの反応は自由であるはずだ。
「相手がどう思おうと、自分は自分の与えたい善意を与えただけ」
「これは自分の勝手でやったことだから、あとは相手の判断にゆだねよう」
そう思えないのなら善意を与えているのではなく、相手を操作しようとしていることになる。
それゆえ善意は害悪となって、自分へ戻ってきてしまう。
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