「自分の存在をありがたく思え」といった時点で、アウトです

自分のことに必死すぎる、自分本位な考えしか持てない依存的な親。

「あなたは親のありがたさがわかっていない。私にはわかる。早くに親を亡くしたからね」と私が若いころ、母からずっと言われていました。

その次にくるのは「だから自分(母)をもっと大切にしなさい」というコントロール。

でもね、ある日私は思ったのです。

「母親の両親が早くに亡くなったのは気の毒だし、寂しかっただろうけど。私はそんな経験をしていないからわからない」と。

そうしてこの母はなぜ「自分がもし死んでも、子供達が自分のような思いをしないでいいようにと考えられないのか?」と。

「帰ってきたとき、私は死んでいるからね」

小学校低学年のときです。

私が学校から帰ると、家には誰もいませんでした。

大抵母は妹を連れて近所のお宅で裁縫を習っていたので、その日も行っているのだろうと思っていました。

その日私は学校の帰り道に友達の家で、遊ぶ約束をしていました。

家に帰って遊びに行くことを伝えようとしたけれど、いなかったので心配しないように書き置きをして友人宅へ。

遊び始めて少し経ったころ、そのお宅へ母から電話がかかってきます。

少し顔の引きつった友人のお母さんが、私へ電話を取り継ぎます。

受話器の向こうから「すぐに帰ってきなさい」となんの前置きもなく、語りかけられました。

「え、でもまだきたばかりだし……」そうつぶやくやいなや「帰ってきたとき、ママは死んでいるからね」と言われて電話を切られました。

友達の前で恥をかかされるは、母親からの脅迫に怒りを覚えて、くやしくて泣きながら家へ帰ったことを覚えています。

「死」を盾にするコントロールをいかに止めさせたか

それ以降も自分の意思を伝えて、母のお眼鏡にかなわないことには「死」を持ち出す母。

またお分かりでしょうが、母の言う「死」は自死をほのめかしていました。

それは私の為を思って言っているわけではないことは、幼稚園のころから肌で感じていました。

ただどう返していいかが、わからない。

中学生になったある日、手塚治虫氏の漫画『火の鳥』を読んだときのことです。

ここには仏教の「輪廻転生」が描かれていました。

そこで母が再び「死」をチラつかせたとき、たいした考えもなく伝えていたのです。

「仏教の輪廻転生では、自殺は一番悪いことになっているよ。だから自殺しちゃうとママは、一番醜い昆虫とかに生まれ変わっちゃうかもね」と読み聞かせのように、淡々と伝えました。

それっきり母は「死ぬ」という言葉を使わなくなりました。

相手が思う私の課題を、自身の課題だと気がつかせたから

当時はたかだか漫画の話でなぜ母が「死」を盾に私を脅さなくなったかは、わかりませんでした。

けれども脅さなくなっただけで、満足していました。

そうして心理学を勉強し始めて、やっと理解することができました。

母は「自分の子供が自分から離れて行く不安を、私に解消させようとしていた」ということ。

ただ自分が不安だと考えると、母親として体裁が悪い。

だから私が自分の意思を伝えることが、罪深いことなのだと無意識に私へ課題を転嫁していた。

自分の課題を子供に負わせていることに、気がついていなかったのだと思います。

そこで私が「輪廻転生」の話をしたことで「子供の為を思って言っていなかった真実」を突きつけられてしまったということになります。

真実は親自身の抱える課題を、鏡のように見せることができる

このように真実というのは、鏡の役割をしてくれます。

だから自分の本音を感情的にならずに、伝えることが大切だということです。

Bi-Bo-6 / arts and wordsより

Bi-Bo-6 / arts and wordsより

かの有名な村上春樹著の『ノルウエーの森』の一部を引用させていただきます。

「ねえ、お金持ちであることの最大の利点ってなんだと思う?」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。たとえば私がクラスの友だちに何かしましょうよって言うでしょ、すると相手はこう言うの、「私いまお金ないから駄目」って。逆の立場だったになったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金ない』って言ったら、それは本当にお金がないっていうことなんだもの。」

このように真実ほど、言葉にするのは難しいのは誰でも同じです。

また言葉にするのが難しいから、感情で訴えてしまうのです。

伝えると訴えるの違いは、訴えることのなかには「裁く」要素が含まれます。

だから私の母も自分の課題を依存対象の私へ感情で向けていたし、私に裁きを与えて「私の課題」にすり替えていたわけです。

一方で私には母から脅迫観念で動かされることに、怒りを覚えるという課題がありました。

その私自身の課題を「母が脅迫しなくなる」のではなく「できなくなる」に代えて克服してきました。

親が亡くなって後悔するかどうかは、子供である自分の課題です

また仮に親が亡くなった後、後悔するしないは自分の課題ですよね。

そこは自分で考えて動けばいいわけであって、親の都合よく動くことが親孝行なのではありません。

後悔をしないために自分の本音を探して、平然と伝える。

私は自分が苦しみながら生きているより、楽しそうに生きていることがいちばんの親孝行なのだと思っています。

だから「どういった環境が自分をより楽にするか?」という本音を考え続けている。

それは自分にしかわからない課題で、誰かから左右されるものではありません。

今の私ならどう伝えるか?

はからずも漫画『火の鳥』で母の死を盾にした私へのコントロールを、封じ込めることができました。

ですが参考までにもしまだ今もこの手を使ったら、今の私ならどう切り返すかを最後に書いておきます。

母:「私が死んだらあなたは寂しいし、後悔するわよ」

私:「そんなに私のこと気遣ってくれなくても大丈夫よ。それよりももうママの方が時間がないのだから、自分のことだけ考えて楽しんでね」

って言うかな???

だって年齢的にも私のことを構っている暇はない人です。

だから私を巻き込まなくても楽しい時間を、思う存分過ごしてもらいたい気持ちは本音であり真実ですもん。

「母は存分に楽しんで、この世を去った」ということで、誰に何の後悔を残すのでしょう?


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